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「半導体は日本経済の象徴か」
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「海外」
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「半導体は日本経済の象徴か」
半導体は「日本経済の象徴」か(1990年12月)
今回お届けする月報が1990年の納刊号。今年は内外で実に多くの動きがあり、激動の90年代を予感させるのか、或いは起こるものがまず発生し、ある程度出揃ったところで穏やかな90年代に落着くのか考えさせられる一年となった。
一年の締めくくりとして採り上げたのは、半導体輸入の伸びとメモリ市況。ともに日米半導体協定の二大骨子(メモリ安売り防止と日本市場への参入拡大)となっているもので、実際の動きも、多分野に大きな衝撃をもたらすものとなった。同時に両分野ともに、今年だけにとどまらず90年代を通して、より真剣な取組みが求められるであろう。
私自身は、半導体の輸入がこれほど大きく伸びたことに対し驚嘆の念を隠せないし、メモリ市況も禁観は出来ないものの回復は近いとみている。
低迷する株価、複雑化する土地問題等、難題はもちろん少なくない.しかし、半導体は人類の英知を集結したものであり、世界の平和と発展に貢献する「日本経済の象徴」と位置付けられる工業製品であろう。 その意味で1990年は、実りある90年代に向けての第一歩として決して悪い年ではなかったと思う。(1990年12月)
再び半導体は 日本経済の象徴(1995年3月)
3 月の初旬に円の対ドル相場はついに80円台入り。あれよあれよという問もなく、記録を更新した。予算編成、ベースアップの時期にあって混乱をもたらす。不確定要因は、常に存在するものだが、先の阪神大震災や、今回の円高といい、よほど柔軟に構えなければ、乗りきれない時代だ。半導体では、輸出価格の引き上げと半導体輸入の拡大が報じられており、必然的にその方向になろう。というよりは、日本全体が、その必要性に迫られており、残された問題は、それが出来るか否かということだろう。今の市況では、半導体の場合は、出来る余地があろうし、基本的には、内外価格差は、存在しない。欧州のように例えばメモリの完成品は14%の輸入関税、半製品( チップ )は 9%といった関税があれば別だが、基本的には自由に取り引きされている。
昨年の円高進行時は、半導体でも内外価格差が指摘されたが、時間とともに解消されよう。長期間にわたり人為的に価格を制御出来るものでないのは、歴史が示している。ただし、単純に海外と価格を比べては 失うものもあろう。日本語のカタログやマニュアルのコスト、適正な納期や品質さらには、諸々のサービスまで含めた妥当な内外価格差は存在しなければおかしい。 結局、円高は日本のシステムの良さ悪さともに教えてくれる。半導体は既にこの段階に入っており、技術だけでなく全体のシステムも進んでいる。だから日本経済の象徴であり、発展するといったら誉めすぎか。(1995年3月)
再び半導体は日本経済の象徴(1998年5月)
成功と挫折、世界一位の確保と、その座からの転落、さらには「天国と地獄」、「こじきと王様」等々例えられるように日本経済と半導体産業の歩みは良く似ている。「半導体は日本経済の象徴」と題した話題を何回かこの欄で紹介したが、最近の様相はまたまた似通ってきた。あらゆる分野で不況感が強まり、先行きどうなるのか、不透明だ。
米国や欧州は成熟、衰退から復権をみせ、アジア諸国を代表に途上国は追い上げる。その中間に位置する日本は欧米とは異なり、そうかといって途上国でもなし、自らの役割や位置付けを探しかねている。21世紀はどうあるべきか、日本の立場や方向、自らの責任や役割を明確にして世界に発信し、交流を深めねばならない時期だが、いささか混乱気味。
はっきりとした態度を打ち出さなくとも、かつては景気循環で時間が問題を解決してくれた。現在のような中途半端でも、21世紀になれば、なんとかなるのかもしれない。しかし、それでは知恵が足りない。停滞が新たな発展のばねとなり、困難への挑戦が明るい未来を切り開く。日本経済も半導体も今は辛抱だが、必ずや、新たな発展期は来る。(1998年5月)
「新しい年」
あっという間に年末(1989年12月)
師走を迎え、月報も今回お届けするのが今年の最終刊。お陰様で6号目になった。振返るには早すぎるかもしないが研究所設立以来またたく間にここまで来てしまったような気がする。月報に関しては一部の読者から内容に関してアドバイスも戴く事が出来、より有用な分析や論評をお届け出来るよう今後も気持ちを引き締めていきたい。
本郷の他にもすこしは馴れ、住めば都ではないが落ち着いた仕事のし易い所と気にいっている。この正月は英気を養い来年はさらに飛躍を回りたい。読者の皆様も良い新年迎えられますよう、また、変らぬご支援とご協力を賜りますようお願い致します。(1989年12月)
天気晴朗なれども波高し(1990年1月)
今年は90年代の最初の年であることから、月報の内容も90年代展望と短期的なメモリ市況の長短織り交ぜた内容となった。90年代を一言でいえば「天気晴朗なれども波高し」で、長期的には成長に疑いはないところだが、時々波が高く、また荒れることもあろう。それでも、70年代、80年代に比べれば荒れる度合いも減り、不沈空母ではないが、産業の休力も増してきている。いつでも穏やかな海を航海することを望むが、多くの進歩は荒海に挑戦し、それを乗り越えた結果でもある。この月報が荒れた時でも穏やかな時でも、少しでも読者の皆様にお役に立てるよう私も努力を重ねていきたい。 (1990年1月)
江戸時代の教訓と21 世紀像(1991年1月)
若い社員が中心になって 2 1 世紀の企業像や従業員像を探る動きが盛んだ。松下電器の「ヒューマン21」、日本電気は「100人委員会」を発足させ、国内だけでなく 海外の社員を含めて、将来像作りを始めている。可能性発見、創造性の発揮、個性的、生活文化といった表現が多く使われ、どのような将来像がまとまるのか、関心は高い。
将来像とともに、そのプロセス、とくに21世紀を担う若い人々が中心になって、将来のことを考え、いろいろな作業を行うこと自体も重要であろう。
今年の新年号でも、経済よりも生活、企業よりも個人重視の傾向が新聞、 雑誌等で目立った。発展に次ぐ発展で今や世界のGNPの約14% を占めるに至ったわが国で経済のみならず生活重視、個人重視が喧伝されるのは時代の流れだろう。半導体の場合は、革命ともいえる変化を多分野に与えているが,この傾向は仝後も続く。技術革新の功罪を説くわけではないが、日本優位の半導体を2 1 世紀でも役立てたい。
技術進歩が早すぎるという意見もあるが、歴史はかって英国で蒸気機関が 発明され1804 年) 工業が発展したときにわが国は江戸時代にあり技術が発展しなかったことを教えてくれる。江戸時代には豊かな文化も生まれたが、経済とくに工業では大きく世界の歴史から取残され、開国1867年)に至った。(1991年1月)
勝敗あるから健全( 1993年1月)
年明けとともに9 2 年の結果推定が相次ぎ、米国優位、日本劣勢の姿が明らかに。象徴的なのは、8 5年から世界首位の座にあったNEC がその座をインテルに譲り渡したこと。僅差だが、米国企業が7 年ぶりに首位の座を取り戻したことの意味は大きい 。
日本がシェアを失ったのは、戦後最大ともいわれる不況のなかでは当然といえば当然。如何とも抗し難い。もともと半導体は米国で生まれたものだし、向うは人口も日本の倍はあるのだから、日本より上でも何等不思議ではない。それでも日本が世界首位の座を維持してきたのは「電子立国」だからか。
日本側関係者の心情推し量り難い面もあるが、ここは第一走者を譲り、体力を取り戻すことが必要だろう。米国からは首位を取り戻したことで、日本と対等の話し合いが出来るという関係者の話も伝えられている。勝敗が続いていることは半導体産業の幅も奥行き十分で、次の飛躍への力を備えている証拠。これが続いている間は健全だ。( 1993年1月)
悲観派それとも 楽観派(1995年1月)
ボトル半分のウイスキーを「もう半分しか残っていない」と考えるか「まだ半分残りがある」と思うか、よく使われる例だ。見方によって全く逆の捉え方になってしまうが、円高に揺れる「日本」も、似たような状況にあるのではないだろうか。 半導体の場合は、すでに回復し、他の業種からみればうらやまれる。が、この産業に身を置く立場で、本当にこれで良いのか、何故か、いろいろな見方が混在している。
今回まとめた日本の輸出シェアも、どのように分析するか、悩んでしまった。例えばグラフがもう少し明確な方向を見せてくれれば、助かるが、数字というのは現実以上に冷酷な動きを見せる。結論は日本の復権となったが、先のボトルの例でいけば、どちらかといえば楽観派の見方を採用した。
円高、メモリでのシェア低下、マーケットアクセスと日本を取り巻く環境は厳しい。しかし、日本を基盤とするメーカーは、かつての84年、88年の品不足時はシェアを伸ばしたし、94年も品不足は深刻だった。課題は、環境が変わるこれからどうするかということだろう。95年も独自の分析、予測の提供に 努力し、読者の皆様に貢献したい。(1995年1月)
96年初夢(1996年1月)
新しい年を迎え、期待と希望をかけて以下思うままに綴ってみた。まず、仕事では生産性の向上がなにより大事。パソコンの進歩は、調査分析予測さらには執筆といった仕事の生産性を大いに向上させてくれている。 しかし.アイデアや考え方さらには理解し易さといった面では、これから。例えばCD-ROM に画像情報をたっぷりいれてアイデアや仕組みを簡単に説明できれば、いかに助かるか 。
通信手段と移動も、便利にはなったが、未熟。ネットワークは期待しているが、一方でウイルスの侵入が恐ろしく、どうも本格的には使えない。家で事務所のパソコンにつないで仕事をする時代は、すぐそこまできているようだが、 そうなるとどのようにして親しい人達と一杯やるか、余計なことで、悩んでしまう。 移動は、飛行機代が安くなって、いつでもどこでもいけるようになってきたが、パソコン持参が難しい。ノートブック型を随分使ってみたが、快適にかつ妥当な 価格で使えるものに出会ったことがない。
なにやら夢ではなく 愚痴じみた話になってしまったが、どれも現実味があり、 実行するのにそんなに難しいことではないと思う。小さな初夢だが、進歩の手段と方法があることは、励みになる。半導体の課題は、他の分野の人々からみれば、技術的でわかりづらいことだと思う。だったら.わかりやすい方法を用意して理解しやすくする。今年も忙しくなりそうだ。(1996年1月)
暗いのも好機(1997年1月)
新しい年を迎えて明るい話題を提供したいと思ったがメモリのデータベースを更新したら冒頭に紹介したように厳しい内容になった。それでも何か明るい材料はないか、知恵を絞ろうとしても株価は下落、ゲリラによるペルーの日本大使公邸人質事件は長引き、日本海ではロシア船から原油流出と困ったことばかり。
それでもあえて明るい材料となれば、某紙が新年から連載を始めた「日本が消える」とか「株安」等、皆が今のままでは日本はだめになるという雰囲気が広く浸透してきたことではないかと思う。この欄で前に書いたがわれわれは「一億総ナントカ」という癖があり、皆が同じ気持ちでないと変化を起こしにくい。しかし、一度同じ気持ちになれば実行は早く、すぐに向きは変わる。
問題は同じ気持ちになるまでに必要な時間が長く、その間に情勢が変わると気持ちも変わってしまうことだ。これが続くといずれも中途半端になってしまう。メモリの事業も少なからず、この面がある。地獄と極楽の繰り返しといわれるが、何とかしなければと思っていると途端に市況が好転して品不足、不況時代の掛け声は瞬く間に消え失せ「改革派」は追放、今度は強気一点張りの「積極派」でないとやっていけない。これがメモリ事業の特色だが、何とかそれを乗り越え、確固たる展望を描ける仕事にしなければならない。ましてや日本の再生となれば、より明確な展望が不可欠。暗ければどうしたら明るくなるか皆が考える。その機運は熟し始めた感じがする。(1997年1月)
激動の予感(1998年1月)
混乱の97年が過ぎて迎えた98年は激動の年となりそうな予感がする。通常は余り起こり得ぬことが起こった昨年は混乱の年だったが、今年はもう少しのことでは驚かない。驚く余裕もない。足元を見つめて新たな展望を築き上げなければならない。激動の先には、もう少し落ち着いて先を考える時代が訪れよう。
少し長期的あるいはグローバルな見方でみれば、冷戦の終結、ソ連、東欧の崩壊、中国の台頭、香港の返還、このところのアジア地域での混乱等すべて何かしらの連携がありそうだ。この間の円高、アジアブームそれから昨今の円安も表裏一体であろう。何やら地球規模で枠組みが変更しているような感じがする。
激動期に生き残るには、先をみて自らが信じる方向を切り開く。それを勝ち取るような勇気や決断力、先見性が不可欠。半導体のような変化が早い分野ではなおさらだろう。キーワードは多様だが「システムLSI」、「300mmウェハー」、地域では「中国」「東欧、ロシア」当りが、決め手になりそうな感じがする。どれも取り組む相手としては十分。大変な時代で、チャンスもリスクもたっぷりだ。(1998年1月)
二回り大きくやってみよう(1999年1月)
99年のキーワードは何か。「再生」とか「選択と集中」とか、いろいろ指摘されているが私自身は「スピード」が気にいっている。何をやらねばならないか、いかに連続的沈没、タイタニック号現象を食い止めるか、新聞雑誌TVその他いくらでも指摘スミ。残されたのは、何を行い速やかに成果を得るか「スピード」のみだろう。
いわゆる再生プランとかリストラ戦略が半導体産業でも発表されているが、傍から想像するに多大な労力をかけて練り上げ、それから社内で根回しされて登場してきたのも少なくないのではないかと思う。かつての目標がぐらつき、新たな計画を策定、それが決まれば後は一直線。結果は運次第?しっかりした会社ほどこんなやり方を好む。
そんなことはないと思うが、やり方を変えるには、従来の延長でなく二回りも三回りも大きく想定して新たな発想で取り組まねば出来ないと思う。言葉の遊びになるが意識の改革でなく革命が必要なのだ。かつての目標がぐらついたのではなくて目標の作り方が間違っていたのである。(1999年1月)
強気な見通し(2000年1月)
年の始めは決まってデータベースの見直しと更新を行う。今回ご紹介のメモリはその第一弾。作業を通じて得た最終的な結果は、その年の明暗を数字が冷酷に占う。今回のメモリでの結論は、今年は雲一つなく全く明るい。こんな結論が得られたのは、ここ2-3年はなかった。
業界には、昨年の年央以降、暖気が到来し、年末には多少加熱気味の部分もみられた。はっきりしているのは、携帯電話に代表されるように世界的に想像を超える需要があり、部品などが確保できれば、さらに伸びる可能性があったことだろう。パソコンも数量的には好調、デジタルカメラなどの新デジタル機器も伸びている。
今年は、アジア地域の回復の進展、米大統領選挙、オリンピックと半導体需要には好材料が目白押し。昨年の携帯電話のような需要の読み違えも起ころう。半導体の伸びが日本経済の発展に刺激を与え、景気の回復に結びつくことを信じたい。そのくらいに輝く年で、強気で望み、成長を獲得する年だと認識している。久しぶりの好機到来、実りある年にすべく、がんばりましょう。(2000年1月)
黄金時代を創る(2001年1月)
海外にいるときは別として元旦は、出来る限り新聞を買い集め乱読する。どれも特別号で分厚く内容も盛りだくさん。値段は通常と変わらないことが多いから得をした感じもする。もう数10年も続け、本人のとっては楽しみの一つ。今回気が付いたのは、年末に世紀末を締めくくる特集が各紙でみられたことだ。20世紀は、戦争や科学技術の発達、日本経済の驚異的発展の時代だったという。例えばGDPでは、かつて世界の中心だった英国から米国に移り、後半は日本が存在感を増す。世紀という時間軸では、90年代の日本の停滞も、どうということもない。問題は、21世紀をいかに実りのある輝く時代にするか、考えさせられる。半導体やコンピュータは、20世紀の最大の発明の一つに数えられている。コンピュータは、大型中心から今や個人向けや機器組み込みと変容めざましい。半導体も同様に変わろう。間違いないのは、無限の発展が約束され、その役割はますます重くなることだ。この分野に身を置いていることに感謝し、後はいかに黄金時代を具現するか、挑戦を続けましょう。(2001年1月)
21世紀はどのような時代(2002年1月)
正月はいつものようにあらゆる新聞を買い込み乱読する。面白いと思われる内容が年毎に減少していると感じるが、これは日本の現状を反映したものかどうかわからない。今年は毎日新聞の元旦付けで東大大学院教授(電子情報学)の原島博教授の「21世紀は意思の時代だ」が印象に残った。 同氏によれば歴史的にかつては陸地を支配したモンゴル、オスマントルコなどが世界を制覇、その後は大航海時代になり、海を支配した国が制覇。それからは科学技術の時代になり、空を支配した国が優位になり、現在は情報ネットワークを支配した国が世界を制覇しようとしている。 21世紀は、とりあえずアメリカの時代が続くだろうとしているが、科学技術で地球の資源を食いつぶして繁栄した20世紀の延長は無理。右肩上がりはもうおしまいで、重要なことは何ができるかではなくて、何をしたいかという意思をもつこと、そして未来を設計することという。この見方に共感、今後の方向を示すヒントが含まれている感じがする。(2002年1月)
心配は不要(2003年1月)
新しい年を迎えて気分を一新したいところだが、世間一般相変わらず厳しい見方が多い。今年は昨年より厳しくなるという人の方が多いのかどうか、判断が難しいところ。私は良くなると思っている。細かな説明は省くが、産業、市場は着実に進歩し、時間的なぶれはあるが、悪ければ改善するという大原則を信じたい。
日本の半導体産業でいえば、今までのやり方では駄目で、新たな取組みが必要とほぼ誰でも感じていると思う。これは大きな進歩だ。当たり前といわれるかもしれないが、ついこの間までは自らの失敗を認めたがらず、責任は違うところにあるという見方も横行していた。
現在はマスコミやアナリストを含め、やり方を変えていかねばという論調だ。大変に結構なことだが、このような雰囲気なってきたのはここ1−2年ではないかと思う。本来ならもう少し早くそのような雰囲気があれば、大変な目にはあわなかったかもしれないが、時間は戻せない。痛みを経て進歩は当然といえば当然。もう少し進歩が必要だ。(2003年1月)
期待の2004年(2004年1月)
本誌の執筆者であるフレッド・ジーバー氏の子供はスイスとグアムにそれぞれ住み、世界的に分散。お孫さんも少なくなく、いずれカメラ付き携帯で元気な顔をみながら話をするのを楽しみにしている。私は、孫はいないが、彼の気持ちはわかる感じがする。
話は変わって業界トップの年頭訓示で松下電器の中村邦夫社長は、「米国のある予測によると、2007年にはパソコンの60%がネットを通じて販売されるようになる」と語ったと伝えられている。例え米国での予測の引用としても販売の松下のトップの発言だけに重みが違う。
間違いないのは、ハイテクが生活に新たな便利さをもたらしたり、ネットの利用の増大がハイテクの発展に結びつくということだろう。夢みたいなことが実現し、不可能を可能にする。2004年は明るいし、その先はさらに希望に満ちたものと期待したい。(2004年1月)
トップの年頭所感(2005年1月)
新聞、雑誌は産業各社のトップの年頭所感が飾っている。今年は景気減速を背景に慎重な見方が目立つ。一部企業では明確なメッセージもみられるが、総じて印象に残る内容は見当たらない。それは多くの発言がまさしくこの1年という期間を意識した短期的かつ現場的な話にとどまる傾向があるからではないかと思う。
少なくとも数兆円の事業をまとめるトップは、余り個別事項にとらわれず方向、戦略を開示されたのが、内外への訴求力が強い感じがする。電機は、製品が多く市場の変化が速い。伸びている会社の真似、成長分野への参入で人並みの経営が出来る良い時代はとうに過ぎ去り、独自性や自らの市場創造が求められている。
いいえ。年の初めぐらいは明るい材料、楽しい話題を登場させ、明るく出発という気持ちはわかるし、それは大事なこと。としても変わらなければならないと思う。トップは、むずかしく絡み合った、わかりづらい複雑系をわかりやすく整理して、方向、将来を提示する。それが組織内外の力を集め、目標を現実のものとする。これが、一般的だと思う。(2005年1月)
先憂後楽(2008年1月)
今年は年初に厳しく、時を追ってよくなる先憂後楽の年なのだろうかと思う。さらに欲張ってその先を考えると五輪景気、米大統領選の反動から来年は調整があるものの2010年5月−10月の上海万博で再び盛り返す。従ってこの先3年ぐらいは何とかなりそうな感じがする。
このような楽天的なシナリオはいくらでも描けるが、果たして自らはどうするということになると簡単ではない。世の中は変わるだろうし、日本自体がそれ以上に変わる可能性もある。お隣の中国は、五輪や万博を経て、見違えるほどの大国になろう。控えるインドやその他新興国も一段と発展しよう。
中国を始めとしてアジアの発展がわれわれにも大いに結びつくことが大事。そのような枠組みづくり、準備を今のうちから進める必要がある。日本が鎖国を解き、航海が始まった時代はスエズ運河まではアジアで、日本人は同胞といわれた。米と欧、そしてアジアの地位がより高まる。好機としたい。(2008年1月)
ピンチをチャンスに(2009年1月)
「ピンチをチャンスに」あるいは「不況もまた良し」といったあいさつを年明けにいただいた。その通りと思う。身を縮めて不況の大波を避けるだけでなく、時には逆手に取り、あるいはどっぷり浸るぐらいの気持ちも必要。全てが悪いことはなく、何か良いこともあるのが世の道理。
私事だが、過去1-2年どうも体調が冴えない時期が続いた。医者に聞いてもわからず、自分で勝手にこれは青春と決別を迫るための体が発するシグナルと考え、それなりに節制し、注意してきた。その結果かどうか、随分と戻り、また調子に乗って暴飲暴食に陥らないか、心配している。
私の場合は取るに足りない話だが、世の中の動きは程度の差があっても同じだと思う。何かシグナルは発信しており、それをうまくとらえ、良い方につなげる。これが増え、たくさん集まれば、それは大きな力となり、やがては方向を変えることをもたらす。そうであってほしい。(2009年1月)
明るい年(2010年1月)
昨年の今頃は土砂降りだったが、今年は晴れ間が増え、ときには晴天も。こんな気持ちで新年を迎えた。薄型TVは驚くほど売れ、パソコンや携帯電話も堅調。比べて申し訳ないが、自動車に比べればわれわれの業界は恵まれている。
確かにわれわれの中でも慎重で、警戒する向きが少なくないが、ともかく最悪の時期は過ぎ去った。そしてやがて春の陽気になれば、より明るくなると思う。お隣の中国は加熱気味だし、インドなども好調。パソコンや携帯端末は、最悪期でも売れたが、経済が上向けば、勢いがつく。
昨年は厳しかったが、それを乗り越えた今年は、より明るくなる。いつまでも悲観は続かず、楽観も必要。常にバランスが求められる。われわれの業界の場合は、そのサイクルが速い。半導体は成熟したとはいえ、まだまだ衰えぬパワーを秘めた先行指標なのかもしれない。(2010年1月)
「季節、気候」
暑い夏(1989年8月)
暑中お見舞い申し上げます。今年こそ暑い夏と期待していたものの、この原稿を書いている時期は、豪雨で水害の出る始末。 短い夏が去ろうとしている。せめてもの救いは、7月未にカリフォルニアに滞在したときの明るい太陽とカラッとした気候。仕事中心なので、十分に楽しむことは出来なかったが、ツユでくたびれた体に刺激を与えたのは確か。
今回の出張の目的は、欧米の提携先との打ち合わせ、及び米国業界関係者との情報交換。パソコンやコンピュータといったユーザー間の在庫が、総じて減少している為に、当分の間は今現在のような景気が続くとの見方が多かった。しかし、これらの人々にとって「暑い夏」はこれから。何せ、1年半もメモリの高値安定が続いているだけに、そろそろ情勢転換の声も少なくない。「暑い夏」は、ユーザーからみれば、いかに必要なメモリを妥当な価格で調達するか、そのかけひきをするのが、これからだからだ。「売る」と「買う」では立場が異なる為に、ユーザーとしては、在庫が少ないとはいいづらい。足元をみられてしまうわけだが、メモリでいえば来年の大口契約がほぼ固まる今後の3カ月が、現地では「暑い夏」となりそうである。(1989年8月)
炎暑に涼あり(1991年8月)
この原稿を用意している8月の第2週は東京では9月下旬並みの涼しさで、ついこの間までの炎暑を忘れそう。このまま続く筈がなく、この月報を読者の皆様にお届けする頃には再びめまいがするような暑さが戻ることは明らか。今年の夏は不思議と現在の半導体の市況に似ているのかもしれない。
7月から8月の初めにお会いした人達の見方も、涼しさまじりの暑い夏。民生電子機器向けが中心の場合は工場の生産能力不足で、いかに今秋から年末を乗り切るか、頭を悩ましている。一方、メモリ主体の場合は下期での投資縮小から場合によっては人員のシフトによる経費節減もあり得るとか。
だから市況に対する見通しは、それぞれの立場によって大きく異なる。予想はどれも正しいといってしまえばそれまでだが、こんな時期に自信を持って、市場はこうなりますよという説得力のある予測が望まれる。私達の見方は別頁で示した通り、上期は伸びすぎのきらいがあるものの、メモリは底打ちから上昇するとみる。この分析が正しいか否か、2〜3カ月後には判明しよう。 (1991年8月)
明暗交錯 1993年(1993年12月)
暖かい気候が続き、年末だというのに世間には、その雰囲気が余り感じられない。皇太子殿下のご成婚を始め、細川連立政権の発足等、いろいろな出来事があったが、1年はあっと言う間に過ぎ去っていく。年末の挨拶に今年はどんな年でしたかとたずねられても、すぐには答えられないほど、激動の年だったと思う。
半導休の場合でも、年の始めは回復の手答えが出て、底打ちかとみられたが、その後の急激な円高、7月にはエポキシ樹脂工場事故、米国市場を中心とした供給不足と目まぐるしく変化をみせた。結果的には米国市場は大きく成長し、その余波は日本にも波及、夏休みを返上して増産という例もみられた。
だから決して悪い年ではなかったと思うが、良い年と言い切るには何かひっかかるものがある。もちろん、93年は良い年か悪い年か、その評価は会社や個人によって異なろうが、こと半導休でみれば、なかなか白黒をスッキリと付けられない例が多そう。別の角度からみれば過度的であり、大きな変化の中に位置しているのかも知れない。いずれにしても無事に終えられそうなことを感謝し、来る新年に向けて叡知を養いたい。(1993年12月)
暑い夏(1995年8月)
昨年に次いで暑い夏。昨年はまだ汗をかいて、その前の冷夏の分を取り戻そうという気概があったが、今年は、そんな余裕もなくなった。勝手なもので再び冷夏を期待してしまう。これだけ暑いと意欲はあっても体がついてこない。決して年のせいだとは思いたくはないが、なかなか自然は思うようにはなってくれない。
7月の未から8月の初めに統計が発表され、それをいろいろ分析、その結果を参考に来年前半までの予測が完成すると夏休みがとれる。しかし、この間1週間前後しかないから、暑いといってペースを緩めることが出来ない。出来なかったら休みがなくなるわけだから、なんとか短い休みでも取りたいと必至だ。
作業が順調に進めは良いが、必ず何かが起こる。しかし、予測は決められた時間内でまとめなければ、予側でなくなってしまう。
これから半年後は、厳寒期だが、この時期も大事。ちょうど1年の結果が出て、それの分析に追われる。考えてみれば、8月と2月が、忙しい時期で、これだけは、今の仕事を続ける限り、変わりそうもない。何事も自然や気候と同じで、またたく間に変わるのが常。定時定点観測を続けていきたい。(1995年8月)
春は桜(1997年3月)
春夏秋冬どの季節も好きだが、とりわけ春は好きだ。事務所の周りは桜も多く、朝夕の通勤時はつぼみの膨らみ具合をみながら開花を心待ちにしている。上野公園には、車を使う距離でもないことから歩いて、例年数回は花見に行く。ここの表口はにぎやかだが、湯島方面からの裏口はそれほどでもなく、本当の花見を堪能できる。落ち着いて花をみていると自然の豊かさとありがたさがわかるようで、心が落ち着く。話をすれば、花の美しさと裏腹の生臭い国家論から社会論さらには世情、これはつまらないことが多いのだが、といつもの通り。ただし、冷静に普段よりもゆったりと落ち着いた感じになるのは、桜のお陰か。 余り騒々しい花見をやったことがないのでわからないが、花見の功徳は、パッとさいて散るように決して連続的でなく、限られた期間のみの貴重さと思っている。気分を変え発想を転換し、新たな気持ちをもたらしてくれる。半導体分野の変化はめまぐるしい。厳しい現実。その一方で限りない未来。新たな発想、視点を変えた分析、より踏み込んだ洞察が必要。花見が楽しみ。読者の皆様もお楽しみ下さい。(1997年3月)
夏にも見放される(1998年8月)
本誌制作中でも東北地方は梅雨明けしておらず観測記録の更新が確実。関東は8月の第1日曜日に梅雨明けしたが、その後も冴えない天気で、夏の感じがしない。似たような夏は最近では93年に経験している。その年は水害、頻発する地震など異常で、大冷害による米不足が大きな問題になった。
当時の半導体分野では、メモリ分野が忙しくなってきて一部企業は夏休みを返上、封止材料工場の事故もあり、その後の著しい品不足につながっていく。今年の天候は5年前と似てはいても業界環境は異なる。しかし、当時のこの欄でも市況は猫の目のように変わることを指摘している。悪ければ良くなる、その逆も然りの循環は絶対に存在する。
93年は自民党政権に変わり細川連立政権が誕生。自民独裁が崩れた年。先の参議院選挙での自民党の予想を超えた大敗は当時を彷彿とさせる。いろいろ考えれば循環的な動きや構造的な要素が絡み合い、変化を遂げているということだろう。もちろん半導体分野でも同じような変化が進行しているはず。天候に見放された夏だが、いろいろ思考を張り巡らすには好都合、読者の皆様も良い夏休みを。(1998年8月)
暑い夏と「2005年復活論」(1999年8月)
暑い夏。東京は記録を更新しそうな炎暑が続く。確か95年も似たような暑い夏だった。携帯電話向け半導体は取り合いで、関連工場は夏休みも返上とか。こちらは、別の暑い夏。忙しいことは結構なことだ。しかし、季節ではないが、いつまで続くか。だまっていても秋は来る。
先に弊社が発行したレポート「日本の半導体、21世紀への挑戦」は、大好評で部数を追加される方もあり、大変感謝している。内容、とくに2005年復活説に関しては賛否両論だが、多様な見方や意見が大事。その上で多くの方々にご利用いただけることが、評価の証と受け止めている。
あふれるごとく存在する情報だが、あるときに求めていたものにたどりつく。それほどは意識していなかったが、ある情報によって新たな世界を見つける。手前味噌だが、このような情報を提供できればそれにまさる光栄はない。いくら暑くても、それに勝る清涼剤を提供する。これが使命で、努力を続けていきたい。(1999年8月)
夏休み返上(2000年8月)
うだるような暑さが続く。東京だけでなく全国的に猛暑。エアコンが売れ、ビールの消費が伸びる。景気にも多少は良い効果を与えよう。夏季休暇も本番。とはいってもわれわれのような分析・予測の仕事は、関係ない。休みがとれるかどうか、仕事の進行次第の面がある。時間は待ってくれない。
市況回復で半導体工場も夏休み返上が多いとか。忙しいのは結構なことだが、このニュースを聞くたびに複雑な気持ちになる。単純に考えれば、今年は市況回復で夏休みどころではないことは前からわかっていたし、そもそも稼動率を最大限に発揮しなければ他の地域とは競争にならないのに休みとは。従業員の休みは必要だが、工場自体の休みはむずかしいところ。
コンビニは24時間営業、スーパーは早朝セールの生き残り時代。お金が注ぎ込まれた半導体工場は原則24時間、365日稼動が世界標準ではないかと思う。そもそも休みがあることがおかしいといったら、休みがなかなかとれない不器用物のねたみか。それにしても暑い夏だ。(2000年8月)
早い夏と気になる市況(2001年7月)
暑い日が続くと思っていたら7月の第2週で、関東地方は梅雨明け。今年は、梅雨がなくて一気に夏入り。しかも暑い夏。景気がそこそこなら思い切って夏休みといきたいところだが、なんとも目の離せない状況が続く。日本の半導体は、春までは前年並みを維持してきたが、このところ落ち込みが目立つ。世界の他の地域に比べればそれでも恵まれているが、夏を前後してどちらに向かうか、むずかしいところ。AV機器やパソコンで回復の動きがみられる一方で、一層の悪化を懸念する見方も少なくない。今月末には、今年の6月までの生産や貿易の結果が公表される。海外企業の業績も出そろう。この段階で今後の方向がより具体的に示される。天候は、如何ともし難いが、産業の今後のシナリオは、出来る限りわかりやすいのが良い。暑さに負けずにがんばりたい。(2001年7月)
炎暑と健康維持(2002年8月)
炎暑が続く。昨年はカラ梅雨で、早めに到来した7月の猛暑でかなりまいった。今年は今のところは何とかなっているが、油断大敵、うっかりすると昨年の二の舞になりかねない。暑さにやられた昨年は、体がカラ梅雨の暑さに馴れず、タイミングで失敗したと思う。今年は、自然の動きに合わせている。 とくに意識してないが健康法は歩くこと、それから暑いときは汗を流し、また水分をとる。目標は1日1万歩で、毎日は無理だが、週2−3回は達成。もちろんその時は汗だらけだ。忙しかったり、サボったりすれば体が重くなり、自然と運動が必要なことを知らせてくれる。最も安上がりの健康法と思う。 1万歩を達成するには、事務所から秋葉原界隈、神田の本屋街それから本郷、上野、東大ルートなどを昼時や夕方に歩き回る。時には掘り出しものにめぐりあったり、いくら時間があっても足りないところをみつけ、楽しみが増える。残暑厳しき折り、読者の皆さまもご自愛を。(2002年8月)
10年ぶりの暑い夏(2004年8月)
今年の夏はやけに暑い。東京での真夏日の日数は過去の記録に迫りそうと報じられていた。前は95年が最高で、本誌の95年8月号のこの欄は「暑い夏」の見出しで、その当時の様子を伝えている。10年ぶりの暑い夏ということになる。
仕事柄、10年ぶりという周期性、それから95年は半導体ブームで沸き立っていたことを思い出してしまう。当時のブームは年末がピークで96年は落ち込んだ。年比較で約9%減。ブームはいつものとおりに短命だった。
今回は違うシナリオを考えているが、今年が暑いように同じことが起こる可能性は否定できない。いずれにしても今出来ることは、少し休みを取り、今後に備えたい。とくに猛暑の反動は秋口に出やすい。読者の皆様も良い休暇をお取りください。(2004年8月)
秋を楽しむ(2004年9月)
前回のこの欄で「10年ぶりの暑い夏」と書いたが正確には9年ぶりの間違いで、誠にはずかしいミスをした。暑さで頭がボーとしていたといったら言い訳になってしまうが、そのくらい今年は暑く、台風も多い。開き直って秋は大いに楽しむとしなければ、釣り合いがとれない。
デジタルカメラ、DVD、テレビパソコン、薄型TVを揃えて気に入った番組を楽しんだり、自作ライブラリを作りたい。毎年、楽しみにしている神田の古本祭りで、古い落語全集のレコードをかなり前に買ったが、これをデジタル化するのも永年の課題。これは個人用で著作権侵害の問題はない。
どこまでやれるか、時間との勝負だが、少なくとも道具は増え、後は行動のみ。昔に比べたら本当に良い時代だと思う。時代の大きな変革期といったら大げさ過ぎるかもしれないが、われわれの業界は恵まれている。もちろん、これからさらにすばらしい時代が来ることを信じて秋の夜長を楽しみたい。(2004年9月)
またも暑い夏(2005年8月)
昨年は10年ぶりの暑い夏だった。今年は、昨年に劣らず炎暑。加えて戦後初の9月総選挙で、さらに暑い夏だ。この時期の選挙は異例だが、その結果はどうなるか、わからない。何かが変わる、あるいは変わりつつあることは確かだろうが、多くの人々にとって良い方向に変わることを期待するほかない。
変わったといえば、昔の業界の暑い夏は、部品の値上げ、あるいはその逆の値下げ要請に対する防戦だった。原材料、人件費その他の要因を含め価格をめぐる攻防は秋口商戦の前の風物詩だったと思う。いつのころか、このような動きはみられなくなった。部品だけでなく、賃金交渉あるいは交通ストライキなども今となってはなつかしい思い出だ。
より秩序を重んじ、何事も整然と行われる。硬直的であり、円熟化、惰性的になってきている感じがする。選挙を通じて日本の今後を大いに議論し、閉塞、停滞感を拭い取る。業界も、やけにおとなしくなく、大いに値上げ値下げで議論を広く展開する。これは好ましいことだ。(2005年8月)
記録更新の厳冬(2006年2月)
今年の冬はいつになく厳しい気候。記録的な豪雪、日本だけでなくロシア当たりでも100年に1-2度といわれる歴史的な大寒波。このところ寒さが和らぐ日が増えた感じだが、油断は禁物。インフルエンザの流行も心配だ。
秋葉原の電気街では、暖房機コーナーは商品がほとんど売り切れの例が目立ち、いかに寒かったか。いつもなら売れ残り品の在庫処分の時期だが、今年はその必要がない。これは、衣料などでも同じらしい。厳冬の年は豊作といわれているが、暖房機の生産は増加しよう。
厳しければとりわけ春の到来はありがたい。業界は厳冬というほどの落ち込みは避けられたが、そこを耐えた力を春とともに大いに伸ばしたい。今年の半導体市場の春は、気候に似て、いつになく明るく、躍動の季節になりそうな感じがする。(2006年2月)
不確かな夏(2006年8月)
今年の夏は、暑いのか、涼しいのか、どうもはっきりしない。景気は良いのか、どうなのか。半導体市況も転換点にあるようだが、これからどちらに向かうのか、どうもわかりづらい。いずれも、もう少し時間が過ぎれば、自ずとはっきりする。
いろいろな面がめまぐるしく入れ替わり、全体を把握するのがむずかしくなっているのは、それだけ複雑、いろいろな要因が絡み合い、一口でこうだといえなくなっているからだと思う。景気が良いところもあれば、その反対もある。中東での混乱など世界情勢も複雑だ。
それでも今年は前半が良かったから、成長の面でみれば後半には多少の貯えがある。後半が横ばいでも、昨年以上の成長は確か。こんな不確かな夏は、少し待ち、次の動きが出るのを待つ。休暇を取り、英気を養う。読者の皆様もどうか良い夏休みをお取り下さい。(2006年8月)
今年は暖冬(2009年2月)
今年は、いつになく暖冬と思う。事務所の近辺を歩いていると梅の花の香りが随所で漂い、鳥の声も聞かれる。暗いニュースが多い中で、暖冬は、明るく暖かくしてくれる自然の恵みと感謝したい。もちろんこれは東京の話で、スキーやスケート客を相手にしている地域は、困る場合もあろう。
そして春はすぐそこまで来ている。寒風が入り込まないようにしっかり着込んだ衣装も徐々に軽く、身軽になる。そうなれば心も弾み、不思議に新たなエネルギーが沸いてくるものだ。体をほぐして冬の間は控えていた運動も再開、多くのスポーツ競技が開幕し、やがては楽しみの花見の季節。
半導体の市況も厳冬から春、そしてさらに活発な時期に向かって変わる。恐らく今の当りが最も暗く厳しい寒さではないかと思う。しかし、気候と同じで、必ず変わり、厳しい時期を忘れさせてくれる。もう少し我慢して、やがて来る春を待ちたい。(2009年2月)
混迷の夏(2009年8月)
冷夏、台風それから地震と冴えない夏。目下の最大の課題は景気と環境といわれるが、今年の夏は、それを混ぜあわせたように重たい。衆議院選挙だが、論戦は漂流気味であり、天候と同じで暑くもなければ、熱くもならない。
少子高齢化や財政再建への対処、そして景気の回復など叫ばれているが、それほど盛り上がらないのは、国の方向や役割が明確でなく、どうしても閉塞感や他人事の感じが出てしまうからではないかと思う。それでも何とかやっていけるという政治家や官僚任せでは、この国は余計に駄目になってしまう。
わが国は、パナソニック、ソニー、そして本田技研の創業者にみられるように世界的なベンチャー経営者を輩出した。そしてスズキの鈴木会長は「俺は中小企業のおやじ」といって3兆円企業を引っ張っている。偉大な先達は、たまたまの例外? それとも我々が変わってしまったのか。(2009年8月)
あれから1年(2009年9月)
実りの秋。新米が出回り始め、おいしい食べ物が増える。好きな時期だが、もう一つ落ち着かない。1年前の9月15日は、米リーマン・ブラザーズが破綻、同じく29日は下院が緊急経済安定化法案を否決、ニューヨーク株式市場は過去最大、777ドル安を記録した。
ここ20-30年で、9月あるいは10月に大事件が起こる例が多い。01年9月11日は同時テロ、97年8月にロシア経済危機が表面化、そして10月はアジア経済危機、87年10月19日はブラックマンデー。ITバブル崩壊(00年4月)を除けば、なぜか9月と10月にとんでもないことが起こるのだ。
例えば欧米企業のトップは、第3四半期直後に次年度の計画・構想に入る。それは期末、とくに9月の結果と第4四半期の見通しを反映したものになる。つまり、1年のまとめと次の年のシナリオがここで決まる。1年前は大荒れで全く視界不良だったが、今年は平穏であることを祈る。(2009年9月)
クール & ホット(2010年7月)
夏は「クール」そして冬は「ホット」の方が良い。サッカーW杯はホット、そして参議院選挙はそうでもなかった。「クール・ジャパン」は日本のソフト力を訴えるブランド戦略らしいが、先の「サムライ・ブルー」も大いにその力を世界にみせた。
半導体は熱が大敵。初期のパソコンは、熱くてよく壊れた。そこで扇風機を置いて冷やす。使うほど発熱するので、ようやく仕事が完成の直前でダウン、また、やり直しの例をよく経験した。この問題は減ってきたようだが、最近はLEDランプや自動車向けなど熱対策が性能を左右する例が目立つ。
熱に強い素材を使うか、余り熱を出さないようにするか、大別できると思うが、ともに改良の余地は大きく、新市場として期待。ここでも「クール・ジャパン」は存在するのか。障子戸にすだれ、打ち水をして風鈴の音がするしもた屋で、暑さを避けながら考えてみたい。(2010年7月)
猛暑で記録更新(2010年8月)
今年は、猛暑で記録更新が相次ぎそう。例えば、東京の連続猛暑日、熱中症による救急車の発動や亡くなった方の数、沖縄よりも北海道の方が暑い日が多かった等々。エアコンは大いに売れ、扇風機は払底する地域が続出するなど、明暗の両面も。
この欄で、暑い夏に関する話題を採り上げたのは、ここ20年で6回程度。概ね94年、2000年、2005年といった感じなので、今年が暑いのは、もしかしたら必然的なものがあるのかもしれない。余計なことだが、この欄で何を採り上げるか、時にはネタに困ることもあるが、今年のように暑ければ、その心配は不要。
ネタに困った新聞社のデスクが新米記者に動物園にいってカバのあくび写真でも撮ってこさせる平穏な世の中の方が良い。しかし現実は裏腹で、落ち着かない。せめて休みをとって英気を養い、来る後半に備えるようにしたい。読書の皆様も良い夏休みをお取りください。(2010年8月)
「競争力」
世界への貢献と新しい教科書づくり(1990年10月)
中東の湾岸危横を始め、米ソ両大国の財政再建、わが国に於いては、不安定な株価、土地問題と難題は山積。半導体でも、これからの市場見通しについて情報は交錯し、何が起るか、多くの人々は次の動きに注目している。
湾岸危機で日本の役割や使命が期待され、非難もされるように、今後の進路は自らの意思で切開いていかねばならない要素が増えた。適当な師も見当たらなければ、うまく教えてくれる教科書もない。自ら師であったり、新しい教科書も用意しなければならないということだろう。
わが国の半導体産業も世界的には似た立場で、世界市場でその役割や使命は、はかりしれないほど重い。今後の半導体はどうなるのか、それを知ろうと欧米やアジアから日本企業を訪問する人々も増えている。半導体の大国として、良き師であることが望まれるし、また新しい教科書も必要だ。とくに、世界の人々に貢献するには何回、何十回と役割や使命を伝えなければ、浸透しない。時間もかかるし忍耐も必要だが、歴史は着実に築かれ、また変っていく。 (1990年10月)
日本からの世界情報(1991年5月)
世界のいろいろな地域で活路されたある商社マンがいう。日本の裏側にある国々に行っても日本人は尊敬される。それは日本製品が優秀で、そのイメージが日本人にも重ねられる場合が多いからだという。日本に対するイメージでも、優れた家電製品や精密機械、さらに自動車といった海外での調査結果を思い出し、それが世界の隅々まで浸透していることは心強い。
しかし、製品での交流は活発でも情報となると十分でなく、それが時には日本に対して間違ったイメージを植え付けてしまうこともあり得る。先の湾岸戦争での日本の役割や貢献をめぐる情報は代表例で、巨額の援助にも拘らず批判的な情報が寄せられるのは、日本のとった措置はともかく情報交流の難しさを浮き彫りにした。
日本から世界への情報が少ないこともあろうが、日本を理解してもらうための情報はさらに少ないような気がしてならない。話は変わるが、先に当研究所で完成させた「提携/合弁」の研究成果が日経産業新聞の4月15日付で紹介されたところそれに対して国内はもとより世界中から引き合いをいただき、資料を届けた。大手企業の場合は世界の各地(例えば米国、欧州、東南アジア、日本)から問い合わせをいただく例が少なくなく日本からの情報は世界に発信されていることを実感させられた。(1991年5月)
産業の成熟化(1991年10月)
ある米国人が、産業の内部で文句を聞く回数が増えてきたら、それは成熟化の始まりだというおもしろい分析をしている。前年比、他社比、予算比、どれも不合格と聞く機会が増えた今の日本の産業は、先の分析方法で判断したら、成熟化の始まりか。
成長の旗手といわれる半導体産業もやがては成長が鈍化し、成熟期を迎える。それがいつ始まるか、鉄鋼等の他の産業でよく聞くのは10年後位に成熟期を認識したという話。つまり、10年前に始まっていたのだが、それに気がついたのは10年も経ってから。何やら、若いと思っていたら知らないうちに体にガタがきて、医者から注意されるのに似ている。
もし、同じようなことが半導体産業でも繰り返されるなら、注意しなければならないと思う。それには人間ドッグにでも入って十分に検診し、常に健康状態に気を配る必要もあるだろうし、暴飲暴食も避けねばならない。若さを保つにはどうしたら良いか、永遠の課題である。 (1991年10月)
資産の再評価(1993年6月)
5月の終わりから6月初めの3週間余りの間に4回もセミナーに出た。 この時期はセミナーや展示会も多く何事も活発な季節。それでも短期間に 4回も参加したのは初めての経験。知りたかったのは日本の半導体産業が「今どこに位置しているのか」という現状把握、それから「これからどうなるのか」出来る限り、いろいろな見方や意見を聞くことにある。結論からいえば、今どこに位置しているのか、セミナーでは、十分に教えてくれない。
気にしているのは、生産コスト上から日本の産業の国際競争力が低下し、 今のままではジリ貧になってしまうという指摘。その一方で、最恵期は脱し、 再び成長期に入るという見方も。共通しているのは、今までのメモリ開発にみられるような「いかに作るか」から市場を産み出す「なにを作るか」もう少し創造性を発揮して、激動の時代を乗り切らなければならないということだろう。
但し、大前提として、今どこに位置しているのか、少なからず混乱気味の感じがする。日本型システムの限界とか、今までの資産が負債に変わったような 見方もあるが、部分的には、正しくとも全てがそうだとは思えない。もう一度資産を評価して、優良なものは活用を高め、成長を図ることが基本。以外と産業内部よりも、ユーザーや欧米の競合企業の方が高い評価を下していることもあるものだ。しかし、それはなかなか聞けない。(1993年6月)
激動期の到来( 1994年11月)
米国の中間選挙では民主党が大方の予想を上回る大敗。マスコミに登場し始めた世界半導体メーカーの売上高ランキングでは、首位インテルの伸び率が前年比49%増、三星電子は80%増(VLSIリサーチ調べ)と驚異的な伸びだ。「激動期」とか「激変の時代」とか、よく聞かれるようになったが、まさにそんな感じがする。
半導体の企業分析では定評のある米証券会社のロバートソン・ステファンが先に出したインテルに関する分析レポート(94年7月22日付)では95年の予測売上は前年比27%増の149億ドル、税引き前利益は同35. 6%増の53 億ドルを超す見込み。この種のレポートは業績評価に対して辛口な場合が多く、仮にそうなったとしても95年は、インテルの「独り勝ち」となろう。 2 位との差は際立つのが必至だ。ということは半導体では、さらに激動の時代に入る。戦略や具体策の違いがもたらす企業間の格差は顕著となり、想像を超えた動きも増えよう。従来の延長だけでは、限界が増え 新たな方策と、それを具体的に行うことが不可欠とみられる。この分野は今までも常に激動してきたが、このところの変化は、激動の時代もまさに本番の感じだ。
( 1994年11月)
負けたら強くなる(1994年3月)
3月4日、米半導体工業会(SIA) はワシントンで米半導体産業が半導体の世界シェア43%を確保し、8年ぶりに日本から首位の座を取り戻したことを発表した。半導体の消費金額でも93年で米国市場は日本を上回った。企業の業績もインテルに代表されるように米国の復権ぶりは明らか。軍配は日本の負け、米国の勝ちと鮮明だ。
今回と最初の逆転劇があった85年とを比べてみると、何が違うのか。85 年当時は、日本が世界の首位になったといっても、当の日本メーカーはもちろん米国メーカーでも信じがたい面が少なくなかった。
今に比べたら情報は未整備で、WSTSもまだ存在せず、お互いに相手がよく見えなかった。とくに、米国側は顕著で、そのような状況では、情報は両極端に走りがち。日本に対する過剰な脅威論や不公正論が台頭した面は拒めない。
日本は追われる側から追う側に立場は変わったが、今回の逆転に対し、過剰、過少に反応、評価せず真摯に受け止め、次の発展を切り開いていくことが望まれよう。歴史は繰り返すというが、負けたら強くなる、というにはスポーツの世界では当たり前で、だから発展する。(1994年3月)
一億総挫折( 1994年1月)
このところ話題になるのは、日本はこれからどうなるのか。変るか、変らないのか。政治は変化が出てきた感じがあるが、他はどうか。この質問に対してある人の回答は、日本は全員が挫折感を味わわない限り、変らないというもの。
つまり、一億総挫折しないかぎり大きな変化はないということだ。優れた分析と思う。恐らく歴史上は、そうなのだろうと感心する。とくに戦後の急復興は、全員で力を合わせた結果であることは間違いないだろう。
現代にあてはめれば、全員が挫折感を味わっているか。決してそうは思わない。今年の正月での成田空港の利用者は史上最高といわれているし、不況下でも、元気ある会社は、少なくない。一億総挫折になれば変るかもしれないが、そのようにならないことを祈る。世界の大国になった日本は、多様な活動があり、さらに世界各国と調和して、いろいろな形で発展をしていくのが、合っていると思う。( 1994年1月)
元気を出そう(1996年10月)
半導体製造装置の販売で世界中を駆け巡っている某米国企業の幹部によれば、今一番元気さが見られないのが日本の半導体メーカーという。元気なのはこれから立ち上げようという日本を除くアジア地区で、タイなども含まれる。日本が元気ないのは、わからない訳ではないが、本当にそうだとしたら困ったことだ。
半導体産業の景気は経営者の顔色で判断するのが一番という見方もあるほどだから、いかに現在の状況が厳しいか、最初に紹介した見方は日本の状態をうまくとらえているのかもしれない。しかし、景気が悪くなってきたからといって、暗くなったのでは、余りに外部の環境に動かさていることになる。縮小均衡、投資削減は常套手段だが、一歩後退しても即座に三歩ぐらい前進すること考えていなければ、変化の激しい半導体では発展はおぼつかない。
元気を出さなければならないと思う。どうしたら良いのか。自分達の状況を正確に判断して立場を訴え、それぞれの立場の人々がそれを理解してカを合わせて最大限の力を結集していく。こんなことは当たり前のことだが、巨大な規模になった日本の半導体産業では、この1 0年ぐらいで連係、連帯は薄くなってしまったと思う。いかに規模が大きくなっても、その意識は変わってはならないしその責任からいえば、もっと厚くする必要があろう。元気がない一因は、信頼、連帯などに関連した面もあるような気がしてならない。(1996年10月)
苦境は経験済み(1997年2月)
親しくしている海外の友人から日本の実情と今後に関して尋ねられることが増えた。景気の低迷、円安、株安等、日本は大丈夫か、ということで悲観的な材料が背景にあろう。言葉の問題もあり、お互いにどの程度まで理解出来るのか確かでない部分もあるが、出来る限り意見を交換している。なぜ終身雇用か、どうして政府高官のスキャンダルが続くのか、どうして規制緩和、構造改革を早く進めないのか、自分でさえも明快な答えを持っていない課題は、相互に理解するのに限界がある。
救われるのは、話すことで海外では今の日本と同じようなことを経験していること。例えば、米国では85年当たりと似た部分が多いという。欧州は、国によって違うが、今の日本みたいな状態が通常といわれたときは笑ってしまった。長期にわたる停滞や競争力の低下は、欧米は経験済み。だから積極的な改革に取り組んでいるのだろう。
残念なことは、欧米の先例が理解されていたとしても、それを現実に活かすには、むずかしい。長い停滞や深刻な競争力の低下を目の辺りに見て、始めて変化していくのではないだろうか。歴史の流れであり、大きな循環なのだろう。彼等は経験済み。わらわれは現在経験しているのかもしれないが、これも時代のひとこま。やがては新たな発展や価値観が芽生え定着する時代が到来すると信じたい。(1997年2月)
IC自由化前夜(1997年8月)
うっかりしていたら96年は日本と米国の半導体貿易が米国からの入超になったのを見逃していた。外国製半導体のシェアが着実に増え、米国企業も元気が良いことから当然といえば当然だが、長年の惰性で輸出は日本の出超という図式が頭に染み込んでいたからだと思う。円安で日本の貿易黒字が増大している環境のなかで大きな変化が起こった。 半導体貿易といえば、私が駆け出しのころの1974年(昭和49年)12月にICの完全輸入自由化が実施されたことを思い出す。関係者から話を聞いて影響などをまとめた新聞記事を作ったが、あわただしい暮れでそれほどは注目されなかったような気がする。当時はICといえば輸入品が当たり前で当然のことながら輸入品が圧倒的に強かった。 70年代の後半には日本からの対米メモリ輸出をめぐって貿易摩擦が激化し、それは半導体の10年協定をもたらし、日米業界のシェアはこの間に逆転それから再逆転している。そして貿易でも出超から入超に変化。すごい業界である。常に変化し、それが競争力や貿易、市場の変化をもたらす。円安で自動車の輸出は増勢だが、半導体は違う。それは日米半導体貿易が象徴している。このような産業は見当たらないだろうし、新しい歴史を作っているのではないかと思う。(1997年8月)
悲劇の「戦艦大和」(1999年9月)
今年の夏は某TV局による海底深く沈没した「戦艦大和」の水中撮影の映像が注目を浴びた。戦争当時は世界最大の46センチ主砲を搭載、排水量7万トン、全長263メートル、乗組員2,800人の無敵戦艦とされたが、昭和20年4月7日に米艦載機386機の波状攻撃を受け、九州坊の岬沖で撃沈された。
大和の建造費は当時で1億4千万円弱、現在に換算すると約2,600億円とされ、大和1隻分で東海道新幹線が完成できる金額とか。某歴史家が、日本が一生懸命大和を作っていたとき米国はレーダーや航空機の機動部隊に力をいれ、それが戦局を変えたという指摘に注目したい。
既存の延長で世界最強をめざす。既存の限界を知り、新たな方法を取りいれ、より力を得る。飛躍し過ぎかもしれないが、現在の日本の半導体は前者の面が少なくない感じがする。大和は日本民族の心の底に残っているといわれているが、その悲劇を繰り返してはならない。(1999年9月)
この10年をどうとらえるか(1999年3月)
99年ということから90年代はどのような時代であったか、21世紀展望と並んで90年代回顧モノが増えている。わが国の半導体産業にとってはこの10年はどうだったか。栄光の80年代に比べると不作であり、不毛であり、失われた10年といった見方もある。例えば世界シェア、市場規模、雇用人員などの数字をみれば、その通りだ。
半導体でみればこの期間で最高の年は95年だったが、それ以外はさえなかった。4年周期の景気変動になるといわれたシリコンサイクルでみれば、95年をはさんで90年代の始めと終わりにもう一つ山が出来てくれても不思議ではない。99年はまだ終わってないとしても、可能性は低そうな感じがする。
成果は確かに限られたかもしれないが、この10年で半導体産業は大きく変わった。技術、資本、経営者、企業全体、さらには産業構造、国や地域の経済、その経済成長や潜在的な発展性など、あらゆる面で大きな衝撃をもたらしている。というのが私の現在の見方。過去の経験をいかし、今後を切り開く。悪ければ良くなるのが歴史だ。(1999年3月)
力よりも知恵(1999年2月)
三年続きの不況から今年こそは脱却、新たな成長を図らねばと誰もが感じているのではないかと思う。市況が上向く可能性もあるが、油断すると再び低迷。他力本願、人任せではなんとも心もとない。しかし、現実は厳しくいくら考えても数字が合わないと悩んでいる光景が浮かんでくる。
半導体の国内需要でみれば、全体は伸び悩んでいることから既存需要だけでは成長はおぼつかない。数字合わせにお隣さんの市場をいただこうと単純な競争をしかけても自ら傷つき、より体力は消耗するだけ。誰も死にもの狂い。お金とか頭数とかの力ではなく、知恵が求められているのだ。とわかっていても、うまい知恵は湧いてこない。さあどうするか。
簡単にできるなら苦労はない。大事なのは継続して考え少しでも知恵を働かすことだろう。皆が成長しているときは、力だけでも伸びられたかもしれないが、現在の日本は停滞を突破する知恵が必要だ。「深く必死にひたすら孤独に考える時間と、その習慣が、日本の経営者には決定的に不足しているような気がしてならない」(日本経済新聞2月1日付、「製造業は本社を地方に」と題してJSR相談役の朝倉竜夫氏)。(1999年2月)
半導体産業の構造変化(2000年11月)
成長分野はどこか。DVD、デジタルカメラ、広帯域アクセスなど豊富。最近は加えて製造受託のファウンドリ、工場を持たないファブレス、さらには電子機器製造受託(EMS)なども加わってきた。畑違いの技術雑誌までも最近は、購買がなくなる、あるいは製造部門はいらないと刺激的な見出しで読者の関心を集めようとしている。
片や製品分野、もう一方は新ビジネスモデルであり、同列には扱えないが、脚光を浴びていることには変わりがない。半導体の側からみれば、かつては成長製品分野にねらいを定め、ユーザーの要望を満たした製品をタイミング良く出せば売れたが、いまや主役に躍り出て、自らも新市場を創り出すことに参画しなければならない例が増えた。機能も付加価値も半導体に移行し、それが生産形態まで影響をおよぼす。
競争力の基準も変わり、単なる先端技術やコスト力だけでなく、最終市場での成功まで含めた仕掛けや仕組みまで求められる時代だ。リスクは大きいが可能性も無限。そこで、構造変化と需給に焦点を合わせたセミナーを12月に開催する。乞うご期待を。(2000年11月)
マグロ漁と国益論(2000年3月)
台湾のマグロ漁に関して興味深いTV番組をみた。簡単にいえばマグロの乱獲、価格下落を防ぐため台湾漁船に漁の抑制を日本側関係者は要請しているが台湾側は保証でもない限り譲ることは出来ない姿勢。ややこしいのは台湾で使われている漁船はバブル期に日本側が性能の良い新造船を作り、旧船を台湾に払い下げたものだ。
国際的な取り決めでは安定した漁獲維持のため新造船で、不要になった既存船は処分しなければならなかったとか。専門家でないから本当の話はわからないが、マグロ漁だけでなく、他にもありそうな話だと思った。一時的な利益がやがては構造的な問題に発展する。ハイテクでも無縁でない。
90年代の米半導体産業の復権は、著作権、特許等80年代始めから整備してきた知的所有権による技術の防衛策に貢献するところ大だ。日本は、発展の基盤になった製造技術や材料の優位性をほとんど防衛することなく気前よく海外に供与した。既存製品を供与しても、次世代製品で発展出来ればそれほど問題はない。分担できればの話だが果たしてうまくいくか。いずれにしても防衛策が必要なのだ。(2000年3月)
産業構造論(2000年2月)
このところ半導体産業の構造論が盛ん。例えば工場を持たない設計専門の「ファブレス」と台湾に代表される製造受託の「ファウンドリ」の組み合わせ。その一方で日本の大手半導体のような全て自ら行う一貫生産、どちらが有望か、前者は水平分業、後者は垂直統合とされる。台湾の躍進に象徴されるように時代の流れは、水平分業だ。
それでは、日本にこのような分業が根付くか、細々した動きはあるが、どうもしっくりこない。それは何故か。垂直統合が日本の強みであり、なかなか「士農工商」のタテ型から急にヨコ型には変われないからか。よくわからない。
それだったらタテ型の強みを発揮し、ヨコ型の優れた点も組み込む。ヨコの良さは「透明性」「合理性」「整合性」等。タテの泣き所は「官僚・権威主義」「もたれあい」「曖昧さ」「閉鎖性」等。もし、日本の半導体が垂直統合で力を発揮できないとしたら、後者の部分が影響しているのではと疑う。タテとヨコをうまく組み合わせれば最強になるはずだが。(2000年2月)
個々は優秀、全体は駄目(2001年9月)
ハードディスクや携帯電話では日本製部品が大量に使われている。ハードディスクを構成する個々の部品はすべて日本製といっても過言でない。しかし、それを組み合わせ世界に供給しているのは米国など海外会社が中心。何故か。半導体でも日本の会社の特定プロセス(低電圧や低消費電力など)や製品では世界をリードする例が少なくないが企業全体となるともう一歩が目立つ。ほめすぎかもしれないが個々には優秀な社員ばかりだが、全体でみれば駄目。ハードディスクと共通しているような感じだ。日産がプロ経営者のゴーン氏のもとでよみがえったように全体をみて思い切った戦略の確立と、それを実効する精鋭部隊を必要としている会社が少なくないのではないかと思ってしまう。そろそろ日本もスタンドアローン(個別)では強いがシステムでは駄目を脱却しなければ、個別も弱体化してしまう。(2001年9月)
春遠からじ(2002年2月)
昨年の熱い波はいずこかへ消え、世界的に半導体産業には寒波が押し寄せている。今年の気候と同様で、何年かぶりの厳しい冬だ。米景気の後退やDRAMの値下がりなど取り巻く環境は確かに悪い。しかし、何が進行しているか、冷静に見る必要があろう。世界GNPの4分の1程度を占める米国の景気後退は深刻だが、今までが良すぎた。80年代の停滞は論外だが、巨大な規模でありながら常に全速力では、長続きしない。DRAMも、世代交代が近い。国単位の経済規模では、米国に次ぐ日本が、90年代の停滞から抜け出し、発展しなければならないことは改めていうまでもない。どうしたら日本が元気になるか。半導体でいえば、次世代携帯電話、ゲーム、デジタル放送、広帯域アクセスなど明るい材料に事欠かない。あとは、弱気にならず、いかに市場を育てていくか、勝負だろう。他力本願でなく、努力を結集して成長を勝ち取る。半導体がしっかりしなければ、会社も駄目出し、日本経済も立ち直れないぐらいの気持ちが、必要なのが今だ。冬来たりなば春遠からじ。(2002年2月)
人の大移動は何をもたらすか (2002年12月)
毎年のことのようだが、激動の1年が過ぎ去ろうとしている。今年はどのような年であったか。目立ったのは人の動きではなかったかと思う。残念なことだが、大手を始めとして昨年から今年にかけて数千人単位の人が会社をやめたり、職場が変わった。新たな出発を図る例も目立ったが、全体の1割から2割前後の削減で、影響は計り知れない。永い付き合いのある友人がいっていたことが印象に残る。海外が中心だったこの友人は日本の半導体産業で@経営トップが海外企業に比べ短期間で変わってしまうA大事な顧客との窓口である担当者も同じで、とくに日系の海外はその傾向が強いB適材適所でない場合があり、組織、人的資源が充分にいかされていないという。 これは、私自身も約30年のこの業界での経験で感じている。半導体は変化の激しい産業だが、他の産業に比べればまだ歴史は浅く、人の流動性は高くても企業や個々の分野では、卓越した経験や能力の持ち主が目立つ。これは海外の半導体産業で特に目立つが、日本も今後はそうなるのだろうか。大きな動きがあった今年が変化への出発点なら幸いだ。
W杯と外人監督(2002年7月)
「にわかサッカーファン」の私だが、先のW杯で印象に残ったのは外人監督。日本の健闘、躍進した韓国ともに外人監督であり、他の国も外人の例が目立つ。世界の舞台を知り尽くした専門的な知識や経験を活かした訓練や試合運びにプロ監督の力が発揮されたのではないかと思う。「攻め」と「守り」それから「ミス、不正」の反則。審判の判断に対する非難も見受けられたが、その扱いが勝負を決めたり、試合の流れに変化をもたらす。表現は悪いがけんか上手でなければアピールしない。日本人は国際会議では、存在が薄いとされるが、これでは勝負に勝てない。国際会議で意見を通すには声は大きく、発言回数は多く、かつ仲間を増やす。自ら限界がありそうと思ったら外人にやってもらうのが手っ取り早い。日本の半導体メーカーでも外人役員を招聘し、海外のライバルと前向きな舌戦がみられるような時代はくるのだろうか。日本のために閉塞感を払拭させるようなけんかをしてくれる外人が必要と思う。もちろんけんかでなく再建が目的だが。 (2002年7月)
日本型漁業と半導体(2002年5月)
ヒットしている「お魚天国」の歌のように魚の売れ行きが良いようだ。牛肉が敬遠され、その需要が魚に向かったことや健康志向も影響している。日本は世界有数の漁業国家なのはご承知のとおり。魚介類は今や世界規模で収穫され、また養殖や加工も世界規模で行われている。 歴史的に民族は「狩猟型」とか「農耕型」に区分され、産業分類上では漁業は後者だろう。現代のハイテク産業は前者に歩がありそうで、変化が速く、かつ枠組みが変わるような時代は、農耕型はなかなか追随できない。しかし、最近の日本の漁業は、相当に狩猟型に変身しているのは前述のとおり。 変化への対応、世界規模の活動、自ら需要の創造や育成は、日本の漁業をみても対応可能なことを示している。従って同等に扱うのは無理があるとしても半導体でも出来る。もちろん、日本的な味付けや舌の肥えた日本人に合わせなければ成功はおぼつかない。日本の半導体は、洗練された寿司のようなものだとかつて海外で聞いたのを忘れない。(2002年5月)
モノとサービス(2003年2月)
日本は原油など資源を輸入しなければならず、その代価を得る上でも輸出で外貨を稼ぐ必要がある。これは正論だが、最近は少し変わりサービスでの収入が十分でないからモノの輸出でがんばらなければという論調も出てきた。その一つは観光収入といわれる。
ご存知の通り観光でも日本から海外にいく人に比べ海外からの来日者は少ない。日本と外国との旅行収支は2001年で3.6兆円の赤字。政府も現行の470万人の受け入れから1,000万人を目標とした計画を実現しようと動き始めた。フランスは年間で7,000万人程度が訪れ、雇用や消費面で観光が巨大な産業とか。
モノもサービスも大事だと思う。日本の工業製品は品質の良さから世界中で評価されているが、これに観光面での評価が高まればすばらしいことだと思う。観光での評価は、文化や芸術それから歴史と幅が広く、日本は諸外国に比べても独自で貴重なものが少なくない。日本の半導体は寿司のようにすばらしいと海外の友人と冗談を交わしているが、海外で寿司愛好家はどんどん増えている。(2003年2月)
風の流れと世界標準(2003年5月)
東京の人は地方のことは余りわからないが、地方の人は東京で起きたことを良く知っている。これは東京から情報や文化などが発信されて中心となっているからだ。ハイテクでも同じことが起こり、世界の中心地である米シリコンバレーの動きは日本でも関心を呼ぶが、日本からの情報は、それほどでもない。
だからハイテクでは、日本で優れた技術や製品が開発されても世界水準に認知されることは少ない。世界的な評価を得るには、本場で評価を得ることが早道。風の流れに逆らうのではなく、その力を使うのが賢明なのだ。いわゆるグローバルな時代では、風上に位置し、そこで存在感を得ることが不可欠ともいえる。
日本からの発信、あるいは日本国内での地方からの発信の努力を決して否定はしないが、同時に世界の中心で発信することが求められよう。技術が一流でもそれが世界で使われることで本来の役割を発揮する。一時はシリコンバレーで日本パワーが目立ったが、今は存在が薄い。みすみす機会を逃している例が何と多いことか。風の流れに乗ることが、勝負の鍵を握ることをお忘れなく。(2003年5月)
中長期戦略はいかに(2004年6月)
2001年の9月11日に米国で同時多発テロが発生。これを契機に第三次大戦が勃発する可能性があることが一部で指摘された。その後の情勢は説明するまでもなく、混沌としている。6月6日にはノルマンディーでの「上陸作戦60周年記念式典」で仏米首脳会談が行われ、イラク問題で対立していた両国の関係改善が期待されている。
これに先立つ6月2日にブッシュ米大統領はコロラド州の空軍士官学校卒業式で中東民主化には何10年もかかるとし、テロとの戦いは第二次大戦と類似したものと演説した。戦争は歴史的に長期間だ。米国人は避けたがる話題だがベトナム戦争は15年間にわたった。
日本は「15年戦争」とされる満州、日中、太平洋戦争の歴史を持つ。戦争は繰り返してはならず、この面で今の日本は幸せだ。しかし、世界的には違う。かつ、われわれが忘れてはならないのは、5年、10年あるいは15年という期間だろう。生き抜き、かつ役割や使命を果たす。中長期戦略の重要性が問われているのだ。(2004年6月)
情報の開示における内外格差(2004年11月)
有価証券報告書での虚偽記載、粉飾決算など次々と表面化。どこの国、地域でも完璧なものなどないとしても、なげかわしい。今回の中間決算の発表では、業績は回復してきているものの、今後の見通しでは歯切れの悪いコメントが電機業界首脳から聞かれた。厳しい世の中だ。
同じ時期に米企業は第3四半期の結果を発表、半導体では、本音を吐くトップも少なくない。いつものことだが、多少はほっとする。「これからどうなるか、思惑は言えるが、正確なところはわからない」。という発言は、恐らく本音だろう。
半導体のような変化の激しい分野は、売上の急減、急増あるいは受注の大幅減少など、もう少し開示を行った方が良いと思う。海外では驚くほど正直に開示する会社が少なくないが、日本はそれに比べるとまだまだ。とくに大手は控えめ。会社全体に与える影響など、制約が多いのはわかる。しかし、情報が滞ると人間の血液循環と同じで、何かと不健全な面を増幅させ兼ねない。(2004年11月)
根本的な変化と軋み(2005年6月)
中国での反日デモ、韓国、台湾での反日の動き。ギクシャクした動きが目立つ。反日ムードは一部の人々の行動だろうし、国内に目を向ければ企業業績は素材や自動車は好調だが、電機やサービス業はもう一歩。いろいろな動きが平行しており、一つにまとめてどうだ、というには無理がある。
恐らく根本的な変化が進行しており、それに伴う摩擦、軋轢などの軋みが出ているのではないかと思う。半導体でいえば、かつての欧米市場で評価された日系企業が、時代と共に韓国、台湾それから中国など近隣諸国と接近し、同じような土俵で勝負する段階に移った。
かつては先行していたのが、今やライバルであり、また仲間のようなものだ。勝負は、真正面からぶつかり、勝敗は実力と時の運で決まる。もたついていたら相手に取られる。日本とアジア近隣諸国だけではないが、それほど一体化。良くも悪くも、いろいろな動きが出る。相手のこともよく聞くが、こちらの立場も主張し、交流を図らねば、一体化はより雑音をもたらす。(2005年6月)
デジタル景気だからこそ(2005年2月)
どうも世の中、暗い感じがする。デジタル景気ともてはやされたのは、ついこの前。最近の業績発表に対する一般的な評価は、電機がまるで悪役に転じたかの流れ。デジタル景気はまさしく「1」か「0」かのデジタル信号のような変化。だとしたら次は再び良くなる。
確かにアナログ時代と異なりデジタルは、数倍の速さの変化だろう。これはそうだとしても、その変化を通じて成長がなければ、駄目。今が不況とは思わないが、不況こそ好機と次の波動に合わせて手を打つ。このような経営者が昔は多かった。今は中国韓国台湾の方がその種の人が目立つ。
急激な変化は半導体分野では昔からだが、今の時代は長期展望がより必要と思う。ハイテクの場合はこれから本当の花が咲く時代を迎える。もちろん、そこに到達するのは容易ではない。しかし、目先の競争に振り回されては駄目。常に先をみて、それを実行しているところが最終的に勝利者となる。苦境打開の妙案、外部からの援助、市況頼りの回復などあてにできない。(2005年2月)
日はまた昇る?(2005年10月)
バブル期以来の最高記録更新が相次いでいるという。企業全般の業績は好調、土地も一部は値上がり、自民党の296議席獲得など、状況は80年代中期のバブル萌芽期の様相を呈しているという指摘もある。ただし、ハイテク業界は、一部企業を除けば、その雰囲気には程遠い。
景気がよくなれば、半導体を含めたハイテクにも、その効果が波及するのは間違いない。しかし、歴史的にみれば、時間差があり、経済がよくとも我々は、停滞という時期(80年代中期や90年)もあった。産業内部の競争であり、とくに半導体は世界的にその傾向がある。
自らの努力が大切な所以であり、周りをうらやまずに成長を勝ち取ることがこの分野の特色。今は苦しくとも、先をみた展望が不可欠。「日はまた昇る」の論文をまとめたエモット氏(英エコノミスト誌編集長)は、中国と日本をおとぎ話のウサギとカメに例え、日本はカメと持ち上げている。現在、元気が良い自動車や素材は、程度は別としても、それを行ってきた分野ではないだろうか。(2005年10月)
ボーダーレス時代の混迷(2006年5月)
国でいえば内政と外交、企業で言えば国内と海外。地域で言えば欧米と日本を含めたアジア。国、企業を問わず人が集まれば、得手不得手があり、そこで適材を配置し、均衡を図る。しかし、万能な人は稀有であり、とくに頂点に立つトップは、難しい采配を強いられる。
半導体産業では、その歴史から欧米派、技術製造畑が強かったが、今はアジア派、マーケティング販売畑が腕を発揮できる機会が増えているのではないかと思う。しかし、ここでも技術製造に対しマーケティング販売のバランスをうまく取るのは容易ではない。
ボーダーレスがますます進展し、政治しても企業経営にしてもバランスのとれた運営はより難しくなっている。その巧拙は大きな違いをもたらそう。日本は地政学的にはすごく恵まれているのだが、もう一つ力を発揮できない。政治では逆にお隣の国々との混迷度合いは深まっている。(2006年5月)
隣の芝生(2007年11月)
ガソリンの高騰を始め原材料値上がり、駐車場その他諸々規制の強化から自動車分野の友人は、先行きますます厳しくなりそうだとゆううつ顔。それに比べてエレクトロニクスは、デジタル家電や新型携帯電話など売れるものが多く、恵まれているとうらやましがれる。
確かにそうだが、われわれの分野は競争が激しく自動車のような業績を出すのは容易でないと私はいう。お互いに相手をみれば、良さそうだが、それぞれ両面持ち合わせ、何事も楽ではないことはわかった。それでも友人は、自分の子供が毎月大きな金額を携帯の通話料金に割り当てているのを理解できない。
携帯がない時代は若者が車に月当たり数万単位の出費をしても負担はそれほどでもなかったが、今は携帯優先とか。そして車が不可欠な地域では、軽の低燃費の車が主体に使われる。携帯の利用料金を下げてくれれば、車はもっと売れると友人。その方向に向かっているのは間違いないだろう。(2007年11月)
コネクト & デベロップ(2009年3月)
半導体産業の発展は、新たな応用開発やそれを実現する技術力によってもたらされる。これらの開発は、技術者つまり人的な依存が高く、産業の研究開発費はほぼ人件費が占め、それは設備投資と並ぶ産業の投資の二本柱であることはいうまでもない。
しかし、厳しい不況時は出来る限り出費を減らすことも求められる。一方で、不況だからこそ開発の重要度は高まる。制約下での一つの方法が外部技術の活用だろう。半導体の場合はソフトウェアを含むシステム技術やGPS、各種ワイヤレス技術など技術の流通は盛ん。米プロクター・アンド・ギャンブルは、2001年から「コネクト & デベロップ」と称して、新製品の5割を外部と連携した技術開発とする活動を展開し、それがV字回復の原動力となったとされる。業種は異なるが、われわれの分野でも共通点は少なくない。(2009年3月)
台所事情(2010年3月)
日本の家庭の台所は、世界でもっとも複雑、ものがあふれている。それは、日本料理が、本来の和食から中華、洋食と多彩だから。スープを味噌汁用のお椀で飲むわけにもいかず、食器も増える。これに比べると他の国は、かなりシンプル。台所も整然としている。
話は変わってシステムLSIの設計は、使いやすい台所のように限られた食材(IP)と、調理器(CAD)そして調理法(IPの組み合わせ、テストなど)が決め手とか。日本風は、見た目や味付け、繊細さで勝るが、欠点は時間がかかり、コスト高、融通も利かない。中華やハンバーガーは、速くて安い。
しかし日本の台所が、変わることはないと思う。いくら海外で日本食の人気が高まっても、彼方で食器までそろえる例は少ないと思う。それなら海外に負けないよう「100円寿司」、「立ち食いそば」、「牛丼」で勝負。日本でも強いものはあるのだ。(2010年3月)
「業界再編」
新しい企業買収プロセス(1990年9月)
今月の月報の内容は、半導体産業での業界再編に関連したものが中心になった。たまたま90年代での世界の半導体の業界地図はどうなるのかという研究プロジェクトを当研究所及び米国での提携先が開始したのが影響しているのかもしれない。
買収と言えば今でも鮮明に覚えているのは、かつて富士通がフェアチャイルド社を買収することで合意し、それが発表された当時。確か1986年10月で、私はカリフォルニアに滞在し、夕方通信社からの発表文を手に入れた。日米同時の発表だったと思うが、私の回りにいた業界通、ましてやフェアチャイルド出身の米国業界幹部もそのようなことが起きるとは誰も知らなかった。ある幹部は信じられないと言って発表文を机にたたきつけた程だ。
結局、この買収劇は、米国政府の反対表明でご破算になったが、買収がいかに難しいか、いろいろ教えてくれた。その一つは最近の大型買収でみられる例だが、ある程度の時間と論議をかけて行うこと。もちろん買う側には、負担は多いが、当事者のみの電撃的発表よりも後々の紛争は減らせる。買収のプロセスや方法も今後は変わって行こう。 (1990年9月)
国際交流と婦人同伴(1989年9月)
秋は、国際会議や展示会の季節。今年も世界各国で、いろいろな催しがあり、人々の交流も活発になる。半導休分野では、11月14日にパリで開催されるラウンド・テーブルが世界各国業界首脳の集まりと言う点で、大きな会議になりそうだ。
わが国からも日本電気、東芝、日立製作所、富士通の首脳が参加の予定。ラウンド・テーブルに先立つ10月中旬にはハワイで半導休製造装置材料協会による日米トレードパートナーズが開かれ、日米首脳が交流を図る。
対話と交流が相互の理解につながり、また協調や発展に結びつくことはいうまでもない。半導体分野で、この種の会合が増えているのは、その面で喜ばしいこと。
但し、業界首脳は、やれ西だ、東だと席を暖める暇もない。ハワイでの会合を始め、いくつかの重要な会議に参加する日本電気の松村富廣専務は婦人同伴で参加の予定。そのねらいを松村さんは、出来る限り家族を含めた交流を図り、より厚い人間関係を築いていくことが、これからの国際化の時代はより重要になる、と語っている。確かに海外では婦人同伴で、国際会議に出席する首脳も少なくない。つきあいも、個人のみでなく、その家族ともあれば、より厚みが増す。しかし、私もそうだがいざ同伴となると勇気もいるし、忍耐もいる。本人はともかく奥方の場合は業界の事情もわからず、大変だと思う。(1989年9月)
提携の三要素について( 1991年3月)
半導体産業での提携、合弁で東芝は最も活発な動きをみせている 企業の一つに挙げられる。同社の川西剛副社長は、成功するための三要素として「論理」「利害」さらに「感情」を理解することが必要という。とにかく提携といえば相互補完や委託といった計算に基づく論理と利害が前面に出てくるが、「感情」も重要な要素に挙げるのは提携、合弁戦略を推し進めた川西さんならではの発言。
いくら日本が強くなったといっても、半導体は欧米で開発され、また欧米ともに日本からみれば大事なお客さん。だから川西さんは「欧米は強い」とし、日本が力をつけたとしても、相手の感情を逆撫でするようなやり方では長続きはしないという。それを考慮すれば、相手側の方が利益の多い四対六程度の 配分もあり得る。とはいって夫婦関係ではなく、友人関係を維持していくのが大事だというのが川西さんのもうひとつの提携論。夫婦のように依存し過ぎず友人のように仲は良くても或る時は緊張状態を持ち、ともに伸びることが重要というわけだ。全体の八割程度はうまくいっても残りは十分に意見を交わし、お互いに切磋琢磨が不可欠といえる。
川西さんは、半導体産業はいずれ世界的な規模でいくつか企業連合が勢力を持つ、天体で言えば惑星が存在するような構造になると予想している。提携、合弁はますます増え、それは政治力にも影響してくる。かつては提携を申し入れても相手にもしてもらえなかったのが、何回も訪問し交流を重ね今は米国ではモトローラ、欧州ではシーメンスという最強ともみられる組み合わせを築いた。だから川西さんはもう半導体産業内部で大型提携は東芝としては有り得ないとし、長い年月を費やした提携、合弁戦略がこれから仕上げ期に向かうことを示唆している。( 1991年3月)
提携、合弁の成功確率は50%?(1991年4月)
成功する確率が50%、つまり半分の場合、どのような判断が行われるか。少なくとも半分以上でなければ困るという場合もあろうし、半分あれば十分で、残りは天命を待つという場合もあろう。50%という数字は、いろいろな意味を持つ。
半導体産業では提携や合弁が数え切れないほど行われているが、その中で主だった約50例についてみれば成功と失敗の度合いは約半々で、判定困難もAMDとインテルの例など3例あった。もちろん、これだけの範囲で一概に提携、合弁の成功確率は半々というのは乱暴すぎるかもしれないが、年に400〜500件も全世界で行われていることから、代表例を参考にする方が傾向は捉え易い。ただし、半々の確率というのは、なんとも中間的な可能性を示している。もし、慎重であるならば出来る限り避けて通りたいところだろうし、楽観派であるなら50%もあれば十分ということになるかもしれない。ことは、相手が存在して成り立つことだし、自分だけではどうにもならないのが、提携や合弁の特色だ。
しかし、振り返って考えてみれば、わずかの歴史しか持たない半導体産業で先達は恐らく半分以下の確率の場合でも将来の成功を夢みて挑戦を続けてきたことも少なくなかったと思う。提携や合弁は簡単ではないが、日本の半導体産業が世界市場で認められ、日本の技術が役立てられるには、不可欠な戦略要素という気がしてならない。(1991年4月)
再生に熱い議論を(1998年10月)
株価はバブル後の最安値を更新し、円相場は乱高下。様相は世紀末で、社会主義経済は行き詰まったが資本主義も危ない。日本の金融システムに対する不信は限りなく増長され、何とか9月末は乗り切ったが忘れもしない「拓銀・山一ショック」の11月がやってくる。
半導体も厳しい。半導体の発展は日本経済の象徴とこの欄で何回もいってきたが悪いところまで一緒だ。ここは真似する必要はない。一刻も早く自ら成長し、日本経済の停滞に活を入れるようにならなければ。何とか、泥沼を脱却し、外部から心配されるのではなく、頼りにされるようにならねば。
少なくともこの業界に身を置いているからには「日本再生」に熱い議論と活動を繰り広げたい。他人事にせず、他を非難しても、何にもならない。自らの事とし、非難でなく皆が協力し、力を合わせれば、動きは出てくる。こんな状態で音を上げてしまうことはない。本当に豊かな実りのある発展は苦境や困難を乗り越えた時に現れる。ちょっとカッコが良すぎる? そうかもしれませんががんばりましょう。(1998年10月)
21世紀への挑戦、その1(1999年4月)
1年前ぐらいから日本の半導体産業がこれからどのように再生し、新たな成長や役割を果たすか、いろいろ研究を重ねてきた。この作業は大詰めに入っており、近くまとめる予定だが、いくつかポイントを紹介したい。
まず気がつくのは90年代始めのバブル崩壊での半導体投資の大幅削減と、そのしわ寄せによる生産能力の不足で95年のブームで十分に伸び切れなかったことである。その反動が90年代後半の結果的に見た過剰投資につながった。この影響は会社毎、製品毎に違うが、悲惨であり、今でも対策が望まれている。
もう少し前に戻れば、92年の投資削減の前には88年ブームの甘い経験があった。夢よ再びのバブル期の過剰投資が、バブル崩壊の構造変化に重なり傷を深くした。環境は激変したが、その中で「投資の規模やタイミング」は適切ではなかった。日本半導体の地盤沈下は外部要因よりも内部要因の方が足を引っ張ったのだ。今や業界は閉塞感に包まれた感があるが、自らの行為が原因の主因だったら同じことを防げば良い。この面では、同じことを繰り返さないという前提で先は明るい。(1999年4月)
21世紀への挑戦、その2(1999年5月)
これから大事なのは半導体での製品企画や新市場の開拓。日本メーカーは生産面では、韓国や台湾企業に追われ、企画や開発力では米国や欧州にお株を奪われている。挟み撃ちで、自ら役割や活路を切り開かねば先はおぼつかない。
ハイビジョン(アナログ)やDAT(デジタル・オーディオ・テープ)は失敗策だ。パソコン用CD-ROM、平面ディスプレイ、電池などは世界に誇れる。しかし、パソコンに今日のようにCD-ROMが使われるようになった背景には、技術の融合、それも米国製コントローラと日本製メカニズムの組み合わせがあったことを忘れることはできない。
80年代の半導体協定では米国側と日本側の技術志向の違いが問題になった。片やコンピュータ、通信で一方は家電、音響である。しかし、国境を越えた開発努力が廉価なCD-ROM、ディスプレイ、ハードドライブを生み出しパソコンの発展に貢献したのは間違いないと思う。今度は日本側が、21世紀を豊かにする新製品を産み出す必要がある。と理解され具体化の動きはある。わりと開花は早いかもしれない。(1999年5月)
21世紀への挑戦、その3(1999年6月)
前年度の結果が出揃い、改めてわが国半導体産業の厳しさが浮き彫りになった。半導体が駄目だと全体も駄目で、半導体が元気を出さなければ、どうしようもない。しかし、目の前の巨額の赤字をみれば、どうしたら良いか、どうなるのか、経営陣は針のむしろに座る思いだろう。86年頃の不況時も今と同じ状態で1日1億円、年300億円、400億円の赤字がざらだった。
もちろん儲かるときにはその倍や3倍の時もあったと記憶している。その繰り返しで現在に至っているが、違うのは、今や半導体が売上、利益ともに会社全体を揺さぶり、役割や影響が比べようがないほど大きくなっていることだ。このようにみるならば、それほど心配はいらない。というかマネーゲームやオセロゲームは、もう出来ない。時が経てば赤字を忘れ、隣が儲かっているからとすぐに投資に走る。横取りをする。それは止めて自らが売上、利益を管理できる事業を行う。これからも「半導体」の将来はばら色だが、個々の「産業」も「企業」もばら色にならなければいけない。不況産業とは離別しなければならない。(1999年6月)
日本流M&Aと外部投資(2000年7月)
国であれ会社であれ、いろいろと限界を感じて変わらねばならない。今の日本はまさしくこの立場だが、どうしたら変わるか。最近の動きをみると、新しい動きが出て来た感じがする。一つは日本企業でも大々的なM&Aや投資を行う方針を打ち出す例が増えたことだ。その目的として自ら行うより時間が短縮できたり既存組織との相乗効果がうたわれている。
見方を変えれば既存のものを変えるのは難しいということもあろう。限定された組織なら内部の異動や転勤で新たな息吹を吹き込めるが、会社とか国家ぐるみでは、そうはいかない。だったら外部に投資したり、違う組織を仲間に引き込んで刺激をもたらし変化を作り出す。外交で内政を図るやり方だ。
半導体の場合は目先の景気はすこぶる良い。となると内部から変革する機運はどうしても薄らぐ。だったら外部から刺激をがんがん取り入れて、揺さぶるしかない。内部もそうなると変わらざるを得ない。ただし、このような策が効果を発揮するのはせいぜい友人関係ぐらいまで。密着度合いが違う夫婦関係でへたな浮気は駄目。変わりようはないのはわかっていても随分と高いものに付く場合もあるらしい。(2000年7月)
業界再編 第二弾(2002年4月)
日立と三菱が半導体事業の大部分を統合することで合意したというニュースを聞いての第一印象は、大変だ、果たしてうまくいくのか、多くの方がこのように感じたのではないかと思う。銀行の合併でみられる主導権争い、たすきがけ人事、表面上は一緒でも内部は合併前の会社のまま。良くみられる例。統合と聞けばこのような先入観を拭いきれない。 私は米国の会社で6年ほど働き、気がついたのは向うは従業員の流動性が高いことや企業間の協力が盛んなことから極めて開放、かつ業務が標準化されている点。違う会社でもやり方は大体同じことから会社が変わっても次の日からあたかも何年もいる人と同様に仕事が出来る。日本の排他的で独自慣習、系列主義とは反対の感じがする。 しかし、日本での再編は進み、日立−三菱に限らず避けては通れぬ例も増える。当然にやり方は日本的になろうが、評判のよくない銀行のようなやり方では半導体では墓穴を掘ることにもなりかねないことを当事者は肝に命ずるべきだろう。容易でないが、それを乗り越え、さらに高い山に望まれることを期待したい。(2002年4月)
業界再編について(2003年3月)
この1年間は主に業界再編について研究してきた。従来から提携合弁、技術交流、知的所有権の運営の研究など定常的に行い、これらの一連の企業間活動の研究は弊社の重点分野でもある。半導体での再編が先行したのはご承知の通り海外であり、その火付け役はかつて世界を制覇した日本産業の躍進であった。
歴史は繰り返すというが、今回は日本の産業が再編に突入し、激動の時代を迎えた。提携合弁、分離独立などは極端にいえば常に相手との関係であり、それによって運命は左右される。国家間、企業間そして親子であれ夫婦であっても、互いの相手は多くの場合異なる考え方である。従ってその研究は一筋縄ではいかない。
宣伝になるが「業界再編の衝撃と将来展望」と題するレポートがようやく出来上がった。出来る限り内容を整理し、実情や課題をわかりやすく解説したつもり。産業は時間が経つにつれて、その参加者には単独でなく、常に相手との関係で将来が左右される度合いが高まる。このレポートが業界の今後の発展に役立つことが出来れば、目的は達成される。是非ご利用を。(2003年3月)
一緒になり、勝利を(2004年3月)
西洋のことわざで「Marry and Conquer」、直訳すれば結婚して制覇者にというのがある。中世の欧州で乱立していた小国家がやがて統合され歴史に残る国家を形成する。そこにたどり着くまでは、利害得失多々あるとしても統合がやがて実りある国家を築き、繁栄をもたらすという例だろう。
半導体産業では昨年は再編があり、統合、分離など盛んだったが、今年になったら落ち着いた。景気がよくなれば、再編どこ吹く風で、意識も変わり、話題も減る。これは、すごくわかるが、景気が良く体力があるときの提携、合併は本誌でも度々紹介しているが欧米では盛んだ。
出来れば冒頭のことわざの精神を頭の隅にでもとどめておいてほしい。過去3年の不況で産業には随所に疲弊がみられる。今は回復方向にあるが、先をみる必要がある。追い詰められたときではなく、皆が明るい時期に次の発展のためのくさびを打つ。これがどれほど効果的か。いうまでもない。(2004年3月)
協業の促進、産業間連携の推進(2004年4月)
忙しいのには慣れているつもりだが過去3ヶ月間はとくにそうだった。弊社が機械振興協会から受託した報告書を作成していたからである。これは計画通りに完成、多くの方々に協力いただき感謝している。以下に内容の概略を紹介する。
報告書は日本の半導体産業の発展に必要な態勢を中期的に展望し、提言をまとめている。提言は短期的には「日本版ファウンドリ」の設立、中長期的には「半導体応用の大構想作り」の二本柱になっている。前者は300mm、90ナノプロセスへの対応であり、後者は市場創造に長期的に取り組む必要を指摘した。
ファウンドリ、製造受託は半導体の会社が自前で最新設備を持っても外部に依存するにしても国内に日本版があっても不思議でないものである。これは受託という仕事から極めて協業的な事業だ。市場創造は半導体の枠組みから大きく踏み出しいろいろな産業分野と連携した研究が必要。協業の促進、産業を横断した連携が今後を決めるという内容で、是非一読を。(2004年4月)
外交下手(2006年9月)
日本人にとって外交交渉ほど苦手なものはないといわれる。私も米国の会社に6年間ほど勤め、やめたときに同じような立場の外国の友人がやめてから1年以上にわたり条件を会社とかけあっていたのをみてその違いに驚いたものだ。
よく言われるのが、シンガポール陥落のとき山下泰文大将がイギリス軍に突きつけたという「イエスかノー」という最終宣言の要求。しかし、イギリス軍は休戦交渉とは何十項目も条件を出してそれを土台に交渉を重ね妥結点を探るプロセスを考えていたと思われることから方法、内容とも異なった。
実際は、停戦交渉での通訳が拙劣で、誤解されたといわれるが、歴史のある長い交渉術に長けた海外の彼等のやり方は、それほど変わっていないと思う。しかし、降参か玉砕か、だけでは世界的に通用しない。ましてや戦争では、太平洋戦争のように悲劇的な結末となる。繰り返してはならないし、外交が重要な所以である。(2006年9月)
深刻化する雇用問題(2009年4月)
日本マクドナルド15万人、ヤマト運輸13万人、ニチイ学館9万人。働いている人の数が多い会社の例だ。正規、非正規、臨時等の形態は異なるが、ファーストフード、宅配便、それから医療事務・介護いずれも多くの人をこれからも必要とする。それに対して自動車、電機の雇用は、業績悪化で厳しく、新卒採用の大幅減も避けられない。
雇用の維持は、わが国が直面している大きな問題で、企業にとっても難しい対応が迫られる。それぞれの立場により、その対処は全く異なり、共通した解はない。日本の強みといわれた終身雇用という言葉はこのところ余り聞かれず、それほど話題にもならなくなった。
欧米先進国が経験しているように雇用問題はわが国でもより深刻化しよう。共通の解は見当たらないとしても、時代は大きく変わり、新たな形に移行すると思う。すう勢は、サービス分野で雇用が増え、それ以外の比率は減る。われわれの分野は、どうだろうか。(2009年4月)
業界再編レポート第二弾(2009年10月)
今年の6月頃から日本の半導体業界の再編に関する調査研究を行ってきたが、ほぼ完成し、近くレポートを発行する段階になった。この種のレポートは03年に次いで第2弾で、今回はNECエレクトロニクスとルネサステクノロジの統合を主体に業界全体への影響、今後を展望している。
前回のレポートでは、ルネサスを主体に採り上げ、将来展望として二つのシナリオを用意したが、結果的には、悪い方のシナリオに向かっている。再編はうまくいかないというのが大方の見方であり、それは今回も同じだろう。
成長しない業界では、メーカーが減らない限り、全体が疲弊する。それは正論だろうが、われわれは専門家としての立場、角度からより広く深く、長い時間軸で振り返り、展望する。そこに新たなものがみえてくる。山動き新たな時代が到来する。レポートはどんな時代か、投影している。(2009年10月)
「秋葉原」
一億総パソコン時代? (1995年12月)
秋葉原が燃えている。12 月9日の土曜日は、人の波で、思ったように歩くこともできないほどだった。押し寄せる人々の日当ては恐らくパソコン、次はゲームだろう。もう20年以上も秋葉原の風景を眺めているが、このところの熱気は いつもと違う感じがする。何が違うか。昔のTV、オ一ディオ、XTRその他諸々の家電ブームに比べたら、より多様化し、モノでなくてソフトが前面に出てきている感じがする。
ゲームもパソコンもソフト次第。そのソフトもウインドウズ95で、パソコンが身近になってきたことが多くの人々を秋葉原に集めていよう。今後の普及についてはいろいろな見方があるが、乱暴は承知の上で私は「一億総パソコン時代」が到来すると見込んでいる。それは本欄94年1 月で「1億総挫折」と題して 日本人が「全員志向」 、流行は猫も杓子もの直線型で、ある方向が決まれば 結果は早いことを紹介したが同じことだろう。パソコンは買うという雰囲気になってきたからだ。パソコンの家庭への普及率は米国に比べ大きな差があるようだが、以外と早く接近する可能性は否定できない。
こうなれば日本の電子産業にとっては好機到来だが、ハードはもとよりソフトでがんばってもらいたい。ブームが一時的で、買ってもらったもののいずれはほこりをかぶってしまったらどうしょうもない。そうならない進歩を作り出す必要性は極めて高い。カメラでもフル自動機を産み出したようにパソコンでもやることはいくらでもある。ゲームは日本のお家芸。パソコンでも出来ないことはないと思うが。(1995年12月)
お茶の水、秋葉原かいわい(1995年6月)
半導体総合研究所の事務所は、東京・お茶の水の近く、文京区湯島にある。前は現事務所から数百メートル離れたペンシル・ビルにあったが、引越し、もうすぐ丸二年となる。今度のビルは、一見倉庫風で前から比べて 家賃は半分、広さは倍近くになった。向かいに新しいビルがあり、ここに来るまでは知らなかったが、競馬の予想誌では、名門に数えられるところらしい。何のかかわりもないが、先方は週末、盆暮れさらに祝祭日の前が多忙のようで、この面ではお互いに似たところがある。
周辺は電器のメッカ、秋葉原があり、歩いて5分。また、調査に必要な統計が得られる霞が関の官庁街までは地下鉄で20分、お茶の水の古本屋街もいつでも行ける。国会図書館、日比谷図書館も近い。いずれは電子化が進み、どこにいても情報を入手できる時代が来るのだろうが、今のところは、便利で離れがたいところだ。
すでにこの地で働いて6年以上になったが、足りないのは、渋谷や青山でみられる「ファッション性」、新宿のような「熱気」と思う。とくに前者は 気になり、何故か秋葉原やお茶の水では渋谷、青山のようなセンスの良い人々がなかなかみられない。とくに秋葉原のパソコン街を闇歩している若者は、ファッショ
ン・センスお構いなしのタイプが目につく。もしこれが「電器」とか「ハイテク」に関連しているのなら問題だ。もう少し気を使い、イメージを変える必要があろう。住めば都だが、狭い東京でも違いがある。出来る限り、いろいろな場所に出向いて、刺激を得なければならないと思う。(1995年6月)
最新秋葉原事情、アウトレットとジャンク (1997年9月)
世界の秋葉原がますますおもしろくなっている。パソコンやネットワーク、サーバーのアウトレットやジャンク品がやたらに増えてきた。主体はボードで、ネットワーク、インターフェイス、ISDN関連のTA、SIMMなんでもある。値段は高くて1万円程度、通常は2千円から3千円。かつて売られていた値段からは一桁、場合によっては二桁も安い。店側も週末は特別価格で引き寄せる。 これらのいわゆる情報技術(IT)関連機器は世界標準が徹底している。あふれるアウトレットやジャンク品の国籍は多様。国境を超えて取引されていることがよく分かる。技術の進歩が早いことから大量に作って売り捌き、その残りが秋葉原のような流通ルートに出回るのだろう。よく言われるタイミングとスピードの世界。遅れたら二束三文だ。 パソコンやネットワークは典型的な米国文化。日本の家電産業、恐らく自動車もそうだろうが、作り方や在庫の扱いは対照的。日本のそれは徹底的に需要に合わせて作り、売れ残りや在庫が増えないようなシステムになっている。だからこのところ在庫の投げ売りなどほとんどみられない。日本型の泣き所は工場生産では自動化されていても資材や工場からの出荷は小口、煩雑になる点だ。対する海外のIT機器は、一括大量方式。どちらが得か、結論は未だ出ていない。しかし、関心は尽きないし、日本型が増えるのかどうか注目していきたい。 (1997年9月)
秋葉原はオタクの街(2003年4月)
最近の秋葉原はパソコンの街からオタクの街に変貌しつつある。コミック同人誌、キャラクターグッズ、TVゲームソフトなどの専門店が増えた。パソコンの販売から転身する店も増えているようだ。秋葉原は大好きだが、私にはオタクの街の価値も魅力もわからず時代の移り変わりをひしひしと感じてしまう。
「千と千尋の神隠し」(宮崎駿監督)が米アカデミー賞に輝き、日本製のゲーム、関連ソフト、マンガも世界で評価を得て、存在感がある。4月7日には鉄腕アトムの生誕記念の催しも華々しく行われた。しかし、これと秋葉原の変貌は関係があるのか、どうだろうか。
アトムが永遠の子供だったように「成熟することの困難」(文芸評論家の江藤淳氏)が背景にあるという見方もある。その屈折をアメリカと日本との関係にも重ねることができると読売新聞3月19日の夕刊(アトムを探せ)の記事は興味深い内容だ。屈折、大人になれないのが事実なのかもしれないが、もう少し違うところにもパワーを出してもらいたい。どうしたら良いか。難しい時代です。(2003年4月)
景気と裏道・横道事情(2006年6月)
VTRがドル箱だった20年以上も前に都心のカメラ量販店がVTRを低価格で販売。既存の販売店が握っていた流通網に風穴を開けた。家電メーカーは、何故低価格品が出回るのか、チェックを厳しくしたが、結果的には、それは限界があったようだ。
高いノルマを抱えた販社は、既存販路に出す一方で、カメラ量販への出荷も黙認、販社自らが商品の製造番号を変えて、本部の監視から逃れた。これは家電に限らず、他の分野でも聞く話。一定の仕入高を超えれば報奨金その他手当てが得られ、それを得るために量販店は無理して仕入れ、その一部を他ルートに流す。
秋葉原かいわいの裏道、横道はそれらの筋の商品が増えている気がする。流通は生き物であり、その制御も実態把握も変化が激しい時期は限界があろう。デジタル新製品があふれている今の時期はかつてのVTR商戦を彷彿とさせるものがある。(2006年6月)
秋葉原は再開発ラッシュ(2007年9月)
最近の秋葉原に行かれた方はおわかりと思うが、すごい再開発ラッシュである。かつて中央青果市場のあったところに高層ビルが一通り完成したら、今度は駅前の電気街で相次ぎ新ビルの建設が進む。9月は期末とあって閉店セールが目白押し。しばらくは落ち着きそうもない。
駅をはさんで、一方が高層ビルの現代的な風景になれば、周辺も変化が出る。電気街の再開発ラッシュは高層ビル群地域に新たに出展した大型店による競争激化が影響している。さらに薄型TVのように展示スペースを必要とする商品も増え、思い切ってビルの建て直しという背景もありそう。
大の秋葉原ファンとしては、より魅力的な街に変貌してもらいたい。高層ビルも良いが、秋葉原のルーツといえるハンダ付けのにおいがするような店も必要と思う。戦後まもなくから営業を続けてきたビルや店舗は、再開発ラッシュで変わるかもしれないが、変わっては困るものも少なくないのだ。(2007年9月)
熱気と景気(2010年4月)
事務所が近いこともあるが、秋葉原に出かけいろいろ見て回る。この3月末から4月初めは、人出が多く、携帯電話、薄型TVそれからパソコン売り場は熱気にあふれる光景がみられた。大型店舗では、時間よっては全てのカウンターが埋まってしまい、待つ人の行列もみられるほど。景気は良さそう。
携帯電話の通話代、ネットのプロバイダー料金、それ以外にも情報小物の料金などいろいろ必要で、これらの支出は若い方ではかなりの比率になると思う。車、旅行、書籍CDなど他の出費に影響を与える。私が若いときにはほとんど縁がなかったものだ。
パソコンや携帯電話は、内外を問わず生活必需品として使われることが増えそう。そして性能が向上し、より便利になる。サービスも多彩で、生活のスタイルを変えるような効果をもたらす可能性がある。本当にすごい時代になったものだと思う。景気も良くなることを願う。(2010年4月)
「業界経験」
本郷に活動拠点を確保(1989年7月)
半導体総合研究所の所在地は東京の本郷で、JR、地下鉄の御茶ノ水駅および地下鉄、本郷三丁目の駅から徒歩5分。目と鼻の先に順天堂医院があり多数の大学や病院からも近い。周辺は閑静で、付近は民家も少なくないものの夜ともなれば人通りはほとんどない。この地にたまたま小さなビルがあり空室があったことからそこが当研究所の拠点となった。ここに至るまで20カ所以上を探し、ようやく見つけた次第。都心で事務所を探すのは家賃等の問題で大変とは聞いていたが、実際ほそのとおりで、一方で実に多くの物件がある事も今回身を持ってわかった。
このビルは、4月に完成し、ビル名も気に入り、将来はこの研究所も、ビルの名に恥じることのない様世界一をめざす山登りを行う場と考えつつ、日々働いている。今後ともにご支援とご協力を、またお近くに来た際はお寄り願えれば幸いです。(1989年7月)
満一年の半導体総合研究所(1990年7月)
半導体総合研究所が産声を上げたのが一年前。今月からは二年目を迎え、活動も少しは軌道に乗ってきた。過去一年を振り返ると、あわただしかったの一語に尽きる。が何より多くの人々から活動を支持され、また、ご協力願えたことが有り難い。
最初何を行う所かとよく尋ねられ、名称に負けそうな感じもしたが、不思議とそれに追い付く努力も行うようになる。半導体産業が成長するように当研究所も切磋琢磨して成長しなければならないと思うし、わずか一年でも、それなりの年輪を残すことが出来たと思っている。
将来の計画はともかくとして、当面は、従来にない独自の分析や予測の提供、これは言い替えれば”すきま”をねらって実績と基盤を作りたいと思っている。また、すきま分野が重要になることもあろうし、それだけ世の中も新しい方向に向かっているような気がしてならない。 (1990年7月)
満2年の半導体総合研究所(1991年7月)
当研究所が活動を開始して、この6月で満2年。少しは落ち着きも出て、過去の活動を振り返りそれを踏まえて行動する、そんな時期に入ってきた。
そこで、この2年間の成果を簡単に紹介させていただくと概ね次の通り。@特別企画3件 A受託調査12件 H海外との提携6件 C定期刊行物1件
この他、昨年の8月には著書の発刊、10月にはセミナー開催、またこの間に内外の新聞雑誌等には24回余り引用され、半導体総合研究所としての見方や意見も、いろいろな方法でお伝え出来たと思う。手前味噌だが、こうしてまとめれば当研究所としての存在を示し、それなりの価値を評価していただくことが出来たのではないかと思っている。
3年度目の今年は、さらに独自の企画による調査研究を始め、定期刊行物を充実させ当研究所の活動を支援いただいている皆様の発展に貢献したい。3年は一つの区切りで、存在価値を真に評価される正念場の時期と受け止めている。(1991年7月)
満4年の半導体総合研究所(1993年7月)
当研究所は5月末で満4年となり、活動は5年目に入った。厳しい環境の中で、無事に4年を迎えることが出来たのは、一重に皆様のご支援の賜物と感謝している。特に月報は、部数の増加と、内容に関してもいろいろなお知恵や励ましをいただくことも増えた。
この4年で業務の内容も固まり、「月報」、「予測四季報」の定期刊行物、 年間研究プロジェクト、それから海外レポートの販売が三本柱になりつつある。それぞれ連携し合う面は多く、当面は、この3本の柱を充実させたい 。
課題は少なくないが、4年間の経験を踏まえ今後も「基礎」をより掘り下げ、 その一方で大きな視野で、この産業の動静を中立的な立場で捉えていきたい。 変化の時代こそ、このような活動が求められていると信じている。 引き続きのご支援をお願いします。(1993年7月)
満5年の半導体総合研究所( 1994年7月)
当研究所は去る5月で設立満5年を迎え、この度6年目の活動に入った。この欄で欠かさず満何年とご連絡するのもこれで5回目。正直にいって世の中の激動のなかで、それなりに根を張り、いかに皆様のお役に立つか、段々と固まって来た感じがする。もちろん、現状に安住することなく常に挑戦し、新しい何かを創ることは、変わらぬ課題で、5年という期間は、そのための基盤ということも出来よう。
半導体の分野で経験を活かし、かつ成果が認められるのには、 私の感覚では、少なくともシリコンサイクルを2回つまり8年ほどが必要と思っている。一度当たってもそれが2回続くか、半導体の分野ではそれが少ないのは歴史が示す通り。裏返せば、今まで通りと思ったら、それが墓穴を掘ることになりかれない分野だ。
だから常に挑戦する気持ちを忘れてはならないと肝に銘じている。商売柄どちらかといえば、積極的でなければならないとも思っている。既に半導体での情報関連の仕事では22年間になるが.予測でも分析でも、何故もっと声を大にして伝えなかったか、反省する面は少なくない。情報洪水、情報過多の時代だか、本当に重要な情報は何か、役割も期待も高まっていると自賛している。今後も引き続きご支援とご愛顧を賜りますようお願いします。( 1994年7月)
月報発刊60号(1994年6月)
今回お届けする月報は発刊以来60号。ちょうど5年で、記念して特別の内容でもと考えたが、時間は迫り見ての通りとなった。出来れば別の機会を見つけて特別号とも思っているが、常に力を注ぎ毎回特別号の気構えで 取り組んでいることをおくみ取り願えれば、有り難い。
このような刊行物がどのように評価されるか、私自身も手探りの面が少なくなかったが、今や一つの柱になっている。発刊以来欠かさず購読されている方も少なくなく、この5 年間で着実に 部数が増えた。
感謝すると共に、より役立つ内容のものを作りたいという大きな励みになっている。もちろん課題も少なくないが、ご指摘ご要望は一つ一つ着実に誌面に反映させていこうと思っている。
新聞、雑誌はマスコミとされるが、それに比べれば月報はミニコミあるいは「マメコミ」のような存在であろう。単に規模でと比較されれば、その存在は小さいが、だからこそ内容が重要であるのは言うまでもない。いろいろな角度で、より掘り下げた内容、経験を活かし豊かに時には厳しく分析、予測する。マスコミの気概を忘れることなく今後も変わらず努力を続けていきたい。(1994年6月)
半導体総合研究所、満6年(1995年7月)
半導体総合研究所は、去る5月末で設立満6年となり、7年目の活動に入った。先の阪神大震災、地下鉄サリン事件と大波乱の年だが、当社はおかげさまで今のところ着実に業務を消化している。半導体産業が本格的に回復し、それが業績に反映することを期待したい。しかし、なによりも大事なのは 環境よりも自己努力、いかにお役に立てるかということだろう。
バブル崩壊後の不況で調査や出版関連の仕事は、相当スリムになったと思う。残念ながら自分が属している分野の具体的な数字にはうとく、実態はわからない。ただ当社も例外なく無駄を省き、効率を上げるなどいろいろ行ってきた。はっきりしているのは、バブルの恩恵もなかったことから、大きなダメージも
なかったことだ。
業界が好調であれ不況であれ情報に対する要求は変わらない。変わるとすれば、要求はますます高度になっているということだろう。この面では、情報の量、奥行き、深さは加速度をつけて変わっているといって過言でない。情報過多、洪水のなかにあって、真の情報が求められ、それに対する要求は高まろう。
このような要求に応じて行きたい。また、それが出来るところが、今後の情報時代に伸びると信じている。(1995年7月)
予測誌創刊満5年(1996年11月)
弊社が発行している半導体市場予測誌“SRL Quarterly Forecast" が 今月発行の 20号で創刊満5年を迎えた。発行部数は決して多くないが、予測だけで5年という期間は、通常の出版物とは 異なる感慨がある。何故か。予測が重要な仕事なのは、いうまでもないが、結論にたどり着くには膨大な作業と知的労働が必要。20号のそれぞれに思い出と愛着があり、 記憶に強く残っている。
海外で半導体市場の予測誌専門で身を立てている友人がいるが、予測作業が終わった後はまるで抜け殻のようになってしまっているのを何回かみている。予測は大変なのだ。コンピュータやネットワーク技術が進んだ現在でも、簡単に予測は出来ない。反対により作業が増える悩みもある。それでも予測を続けるのは、何故か。それが仕事といってしまえばそれまでだが、先を読む、未知への挑戦があるし、何よりも的確な予測が求められていることがあろう。
予測の精度や方法は着実に進歩している。半導体産業の規模が大きくなり、歴史も積み重なってきたことが背景にある。もう一つの課題は、予測をいかに理解し、実際の業務に活かしていただくか、これも大きな挑戦だろう。海外では、外部予測をそのまま経営に取り入れる例が多いのに対して日本では、予測は予測という使い方が少なくない。予測に馴染んでもらい、それを現実のビジネスに活用してもらうことが鍵で、さらにがんばりたい。(1996年11月)
半導体総合研究所、満7年(1996年7月)
半導体総合研究所は去る5月末で満7年を迎えた。 おかげさまで 7 年目は、好調な業績を収めることが出来、これも皆様方の御支援の賜物と感謝している。調査、コンサルティングの仕事は好不況の波をそれほど受けないと思っていたが、7年の経験からすると、大幅ではないが、少なからず反映している。この面では8年目は、業界が転換期を迎えていることから、それを意識して慎重に取り組みたい。
とはいっても我々の仕事の規模はしれたもの。扱うのは情報のみだから中身次第。業界がどのような時期にあろうが、求められる情報は常に役立つものでなければならない。重要な情報を提供するには安定した活動を継続することが重要。いうまでもなく情報は客観性があり、深い洞察力、指導性、説得力がなければならない。もちろん情報の価値は、業界全体に影響力を与える一方、限られた人々が知ることで、一層価値が高まる。
情報の価値が評価される時期が近づいていると確信している。また、それが多様性、豊かさ、味のある、それぞれの会社が異なり、活力や成長力に満ちた産業基盤をもたらす。シリコンバレーは、数えきれないほどのコンサルタントが 活躍しているが、日本でも、それほど遠くない将来に実現しよう 。(1996年7月)
半導体総合研究所、満8年(1997年7月)
去る5月末で半導体総合研究所は満8年を終え、活動は9年目に入った。8年といえば、シリコンサイクルでいえば2回分。2回を乗り切れば、多少は、自信を持っても間違いないと思うし、これはよくいわれていること。少しほっとしている。設立がバブル景気ピークの89年、それ以降でサイクルの底は92年それから96年、いずれも大変だった。誤解されないようにいえば、それ以外の年もいろいろ大変なのだが。 それでも最近は、仕事にある程度のサイクルが出来、その範囲では順調に業務を消化している。次は10年当たりを目標にさらにお役に立てるような事業を育てていきたい。私個人の事になるが、半導体分野と縁を持って今年で25年目。若い若いと思っていても、何かにつけて自分よりも若い人々と仕事をやることが増え、そこで改めて、世の中の移り変わりを感じたりしている。 独立した目的が、この分野にかかわる情報で従来にない新たな価値を提供しようというもの。10年当たりで一つの区切りをつけねばと思う。ねらい通りの面もあれば、英文刊行物のように未だという部分も少なくない。思った以上に成果が上がった例も。ここまでこられたのは本誌購読者始めとした皆様のご支援の賜物。ご感謝とともに今後も変わらぬご支援、ご指導を誌面上ではありますが、お願い申し上げます。(1997年7月)
満9年の半導体総合研究所(1998年7月)
半導体総合研究所は去る5月末で満9年となり、活動は10年目に入った。いよいよ10年目で、一つの区切り。現実にはあわただしくここまで来たという感じもする。もう少し業界が落ち着き、景気が良ければ、節目を意識した活動も出来るかもしれないが、今年は大変な年だ。それは別としても、少し節目を意識して「研究」と「人」に関してこだわってきたことを紹介したい。
社名からしても、「人」が大事で、それによって評価はある程度決まってしまう。この仕事は頭数でなく質第一なのだ。どうしたら優れた人材が集まるか。そこで高い理想と遊び心で「人」に関して次の法則を創業から適用した。良い仕事をすれば自然と人が集まり、より良い研究が出来る。人が集まり、また吸い寄せられるようなところであるべきだとも。結果は、そのようなときもあったが、ここで結論を出せば、理想と現実は異なっていた。
次の10年は、もっと積極的に研究員を育成、発掘したい。研究は人次第の面もあるが、過去9年の蓄積を活かせば、より効率は高まり、要求も探知出来るはず。業界を取り巻く環境は厳しいものがあるが、だからこそ先をみた情報が求められる。今後も変わらぬご支援とご指導をよろしくお願いします。(1998年7月)
満10年の半導体総合研究所(1999年7月)
弊社は5月末で満10年となり、活動は11年目に入った。無事に10年を迎えられたことは、うれしいことだが、日本の業界の惨状をみれば、悲しくなる。思い切ってどなって、どうなっているのだとわめきちらす。そんな物騒な気持ちになる。弊社は独立経営で、その面では業界とは別だが、一方が悪いとこちらも駄目だ。
それでも10年。分析や予測の基本は、この先の10年を想定するには過去10年を知ることが前提。10年の実績は今後の10年をより確かなものにする。過去だけに依存はできないが、過去を無視することも出来ない。失敗もあったし、随分と助けられたこともあった。
10年を期して「日本の半導体、21世紀への挑戦」をまとめた。10年前には「世界の半導体産業10年展望」をまとめ、仕事上は10年を一つの区切りで完結させることができた。情報を通じて皆様に貢献することが、使命と改めて肝に命じている。心から感謝すると共に今後もよろしくお願い申し上げます。
業界生活30年(2003年6月)
私ごとだが、振り返れば業界生活は30年になった。短くもあり、一方で30年の重みも感じる。最初の10年間は新聞記者(電波新聞)で、電子部品それから半導体を担当、それから米調査会社データクエスト(現ガートナー)で6年間はアナリスト、そして現職で14年間、合計30年間となる。
当然だが良かった事、悪いこと、楽しみなんでもありだが、社会に出る前からおぼろげながら思っていた「国際活動」と自ら給料を稼ぐ「独立」を達成できたのは満足している。最大の財産は仕事での取引先、友人でもある提携先および弊社のスタッフ、もちろん家族であり、それらに支えられ恵まれた30年を過ごすことができたと思う。
この経験をいかして今後に挑戦したい。私の米国のパートナーで、本誌の執筆者であるジーバー氏は自らの30年の経験で理解したことは「半導体というものがわからないことがわかった」と名言(?)で結んだが、この気持ちが大事と思う。単に経験だけに縛られず、専門家としての分析、予測さらには見識、洞察力を磨き、お役に立つことが使命と肝に命じている。(2003年6月)
「通巻240号」(2009年6月)
余り意識してないが、本誌は今回で240号、毎月1回お届けして20年を経過した。早くもこの回数に達したという気持ちもあれば、よくやったという思いもあり少し複雑。はっきりしているのは、20年を一つの区切りとして、さらに励み、より価値のある内容に出来ればということ。
私の米国のパートナーは、私以上の経験を持つが「半導体を30年間やってきてわかったことは、半導体がわからないということがわかった」と節目のときに語ったことを覚えている。ここでの30年間は、半導体市場の調査予測の経験だが、この見方は、今でも変わっていないと思う。
サブプライム問題に端を発した昨今の情勢は、半導体のみならず、通常のことでさえも先々の見通しが困難であることを教えてくれる。20年は、人でいえばようやく成人で一人前。通過点として、さらに力を発揮し、皆様に貢献したい。今後もご指導ご鞭撻をお願いします。(2009年6月)
「仕事、スタイル」
サテライトオフィスの実験(1990年4月)
ここ1−2年、サテライトオフィスとかリゾートオフィスと呼ばれる郊外型の事務所が脚光を浴びている。地価の高騰や通勤地獄から逃れられ、また最新のOA機器や通信手段を利用し、離れた所でも仕事が出来る筈という訳で、実験も盛んとか。
そこで、私も試みた。というよりも、やむにやまれず、そうしなければならなかった。使う書類は山ほどあるし、ともかく集中して、特定期間中にある量の仕事をやらねばならない。昔だったら温泉付き旅館とかホテルで合宿よろしくやったものだが今回は発想を変えて3月末の1週間山梨の八ヶ岳の実家に仮オフィスを作って実験してみた。コンピュータ、ワープロ等の現代の神器はもちろん、書類を並べ、すぐにアクセスできるように1.8bの会議机を二個並べて、東京では出来ない贅沢なスペースを使い、仕事もほぼ目標通りに遂行、海外の提携先との定期電話会議も何ら支障がなく行え、サテライトの可能性ありと。
ところが思わぬ伏兵に出くわした。1週間に亘り折りたたみの椅子を使っていたのが良くなかった。東京に戻ってきてみたらやけに背骨が痛い。特に重心をかけていた左下半身がしびれ、直すのに1週間もかかった。これを除けば、快適だったといえるが椅子には注意しなければならない。そういえば外部の会議でも、慣れない椅子を2、3日も使うと背骨が痛くなることがある。軽量で収容性が長く、長期間座っても反動のこない椅子を見つけて、次の機会に実験してみたい。(1990年4月)
リゾートオフィスと最適業務(1990年11月)
リゾートオフィスの体験談を以前この覧で紹介(月報90年4月号)したら、予想外に多くの反響があり、その関心の高さがわかった。反響の内容はリゾート型のオフィスの利点が都市への一局集中による弊害を押さえるのに有効だが、一方で情報入手や交換、意見疎通の面でもう一つ実現に踏み切れないというもの。
確かにそうだが、仕事の内容によっては、リゾートでの仕事も十分に可能なことを先に当研究所で開催した「予測セミナー」で、M.ヘンデルスマン博士は指摘した。
例えば、半導体の市場予測ではときには情報が多すぎたり、余りにユーザーやサプライヤーの言うことを信じ過ぎて、先行き見誤ることも決して少なくない。博士は予測モデルの指標には現実の半導体の統計からは独立したものでなければならないと述べているが、このような仕事は雑音の少ない郊外の方が適しているのかもしれない。
いずれにしても、半導体のような資本、技術集中型の産業では予測手法一つとっても、これからやらねばならないことは少なくない。とくに手法に関しては、ときにはリゾートオフィスで考えたり、開発したものが、確度が高い場合も出てこよう。(1990年11月)
経済規模の縮小と価値観の変化(1991年11月)
90年代は教科書なき時代、海図なき航海の時代と誰かがいわれたような記憶があるが、最近はますます、この例えが現実的なものとなってきた感じがする。大きな変化をみせる世界情勢に半導体産業も巻き込まれ、その秘めたる力も激動の波にはわずかなものでしかないのだろうか。湾岸戦争にしても、ソ連、東欧圏の崩壊にしても、今までは自由主義圏の中での繁栄から世界規模での均衡に向かって大きく動き出し、それが人々の心理に直接間接影響を与えているような気がする。
自由圏で収まっているときは、日米欧それぞれ補完しあったり、また日本と旧西独が景気持続の牽引役となってきたが、この構図が最近は変わってきているのかも知れない。今の時代は戦争景気もないように砂漠に水を撒くように世界的に経済規模が縮小しているとある家電メーカーの人が言っていたが、このような見方もあながち間違いではあるまい。
とすれば、今までより少し節約しなければ新しい基準に合わせることが出来なくなるし、最近みられる経費節減は、まさしく時代に合致したものだろう。こんな時代は人々の価値観が変わり、例えば「物」志向から「心」志向になりますよと、先の人は商売に結びつけることを忘れない。このような発想がある限り、半導体の需要は心配ないとみる私は楽天家すぎるだろうか。(1991年11月)
不安でも自信過剰でもない(1991年12月)
最近は、いろいろなところで「半導体は大丈夫か」とたずねられることが増えた。新聞などには先行き収益悪化の情報が増え、それは多方面に影響を与えている。詳細はともかくこのような場合に私は「大丈夫ですよ」といっている。ちょうど一年前のこの欄で紹介したが、半導体は「日本経済の象徴」であり、多少の変転はあっても、大きく伸びると信じている。たかだか世界人口2%の日本が世界GNPの14%を生み出し、それが半導体になれば生産も消費も半分近くになる。バブル経済で膨張し過ぎの面もあるかもしれないが、ここまで来たのは誇るべきことだろうし、世界での役割も責任も重い。
日本だけでなく、世界で稼働している日系の半導体工場は欧米で10以上を数え、これに対し日本国内で稼働の外国メーカー系のそれは5カ所。相互乗り入れであり、日本からみれば日本メーカーの国際化も着実に進み、うまくやっている。
まだ、やるべきことは少なくないだろうが、日本の半導体産業に対する信頼は厚く期待も大きい。日本人は自信過剰か不安かの二通りしか精神を維持出来ないという外国からの指摘もあるが、半導体の場合はあてはまらないと思う。あわただしかった一年が過ぎ去ろうとしているが、私も平静心で次の発展を考えたい。(1991年12月)
薬価見直しと半導体産業(1992年3月)
本郷といえば学問と医療の街といわれ、大学や病院、それらの関連業種が多い。ここ数年の変化は新しいビルが建ち、随分と銀行の店舗が増えた。教育も医療も衰退することはないという表れか。ところがそうでもないらしく、それぞれ問題はあるようだ。
例えば医薬品の算定方式が改定され、取引は実勢価格に近づき、この結果製薬会社や卸会社は今後数年のうちに半減することもあり得るという。裏返せば今までは薬で守られてきた訳で、競争は激烈でも十分に利潤が出ることが保障されていた。半導体とは随分違う。
薬価の制度が変わり、大きな打撃を受けるのは特許が切れたゾロ品といわれるもので、一方で革心的な医薬品はほとんど影響ない。つまり、実勢価格とのかい離の大きい薬品は今回の影響を強く受ける。これは半導体も同じで、今好調なのは著作権や特許で守られたマイクロプロセッサやPLD等。メモリやゲートアレイは泥試合気味で、この分野はゾロ品的な様相。薬は健康に注意すれば余りお世話になることはないが、半導体はどれも大事で、ゾロ品の救済策如何。(1992年3月)
長すぎたブーム(1995年11月)
住居の近くにカラオケ店が出来たのは3年か4年ぐらい前だったと思う。そこは小さな交差点で今は営業してないが前が銭湯、向かいがファミリーレストランといった立地で、いろいろな店が出来ては、次々と変わることから、いつカラオケ店が出来たか覚えていない。印象に残っているのは既存の店舗を衣替えして、あっという間に開店、見掛けは立派だが、作りは安普請のことだ。
今でも繁盛しているようで、若者の姿を見かけるが、いかにせん、寄る年並みには勝てず、見かけはあちこちがはげ落ちて失礼ながら幽霊屋敷のようになってきた。勘ぐれば経営側は、2-3年のブームを見込んで、それなりの建物を用意したのだとしか思えず、この場合は、もう少し作りに投資しでもよかったのではないかと勝手に考えている。かつでは有名なレコードレンタルのチェーン店であることから、制度そのものがなくなったレコードレンタルとカラオケを同じようにとらえているのかも知れない。
同じことは半導体でもいえる。今は工場の建設ラッシュだが、工期短縮、出来るだけ低コストで早く立ち上げるか、最大の課題だ。地域の法律や慣例にもよるようだが、早くて安ければ良いという場合と、その逆の永遠に使えそうな建物を作らないと気が済まないと、いろいろ持性があるようだ。いっそのこと 後楽園のようなドーム型にしたらどうだろうか。ブームの時はすぐに使えそれが 去ったら部分的に空気を抜いて待機状態にする。空調の制御も単純になる。実際はそう簡単ではないだろうが、半導体市況は変化の早さでは、決して他の分野にひけをとらない。発想を転換しなければ、半導体の秘めた力に応じられない気がする。(1995年11月)
日本人のプレイボ一イ(1995年4月)
日本人のプレイボーイ、ドイツ人のコメディシヤン、米国人あるいは英国人の名コック、フランス人、イタリア人のテクニシヤン。稀な例という。インド人をだまらせ日本人から一言でも発言させたら、その国際会議は成功といわれる。中国、台湾人からカジノとギヤンプル、韓国人をキムチ抜きにしたら借りてきた猫と同じ。そしたら日本人は「菊と刀」がなかったら何もできないか。最近ある外国人とやりあった駄酒落である。
5-6年前、米国とくにシリコンバレーが落ち込み日本が受けに入っていたころ、将来のシリコンバレーはどうなるのか、研究することに参加した。結論は世界のハイテクの中心に蘇るという 内容だったが、その要因の一つが当地での人種の分布。悪く言えばるつぼであり、よくいえば世界を縮めたような混合型だ。 白人、アジア系、スペイン系、他の米国(例えば東海岸)の地域に比べバランスが良い。
そしてアジアの時代の到来。香港、シンガポールに代表されるようにここも雑多だ。日本語は無理だろうと思っていたら流暢に使う人。数えきれない程世界中の国々で働いて現在はアジアという西洋人。開放的であり、何でも自由で、挑戦できる。もちろんリスク 大きい。世の中が変化しているときは、いろいろな混ざり合いがあったのが強いのではないだろうか。アジアが閉鎖的になれば発展は止まろうが、そんなことは、ここしばらくありえまい。(1995年4月)
混乱の97年(1997年12月)
今年も残すところあと僅か。例年と異なるのは師走というのに街にはその雰囲気がほとんど見当たらないことだという。暖冬で衣類の大処分のチラシが入っていても、私自身はそれほど関心がない。忘年会も1次会でおしまいの例が多く、タクシーもあふれているとか。金融機関の破綻、とくに11月の始めの三洋証券、それから拓銀、最後の連休を前後しての山一と押し迫ったところで大きな事件が相次いだ。韓国の経済危機も年末が山場と聞けば、落ち着けない。通常は1年の締めくくりをして新たな年を迎えるようにするが、今年はそうもいかない。連続的な変化で、半導体への影響も大きい。これだけの変化があると対応も難しい。例えばマスコミでいえば多くの新年向け企画は10月か遅くとも11月の始めには決まり雑誌などは12月中に店頭にならぶ。11月の金融機関の破綻や韓国の危機は時間的には間に合わない。時間の制約でどうにも限界がある。同じ事は会社や業界でも起ころう。変化が早く、追随できなければ大変なことになる。対応しようにも出来ないことがあるが、それでも変化を理解しているだけ救いようがある。同時に変化に応じるだけでなく、創り出すことが求められよう。「明治以来、百年間昇りつめた経済の階段の踊り場に到達して今後は自前の階段を作っていく時代。まさに創造性が求められ、こんな面白い時代はないですよ」(経済学者の関満博氏)。98年はこのような気概で望みたい。(1997年12月)
スピード経営(1998年11月)
ここ2−3年で何が変わったか、いろいろあるがやたらに飲食系の店が増えた。事務所の周りでも住んでいる東京郊外でも同じ。失礼な言い方だが、いわゆるジャンクフード。安くて手軽、価格破壊の店が増加している。同じ面積のなかで店が増えれば競争は激化、恐らく何倍も厳しくなっているだろう。それでも増えるのは参入も容易なら撤退も簡単だからか。不況でも「食」は不可欠。
新しい店は、最初はにぎやかだが、すぐに競争の結果があらわれる。いこうかと思っているうちに早くも見切りをつけて次の店に変身という例も少なくない。新陳代謝は活発だ。あるいは昔のように悠長にやっていられる時代ではなくなったのかもしれない。やがて景気がよくなるなどという甘い考えは捨てスピード経営に邁進のようだ。
80年代のシリコンバレーが同じだった。店が相次ぎ閉店してかつてはにぎやかだったところが薄暗くなっている。開店しても、つぶれる店が多くそのような場所が増える。自ずとスピードが要求される。ハイテク産業が元気でなければ、周辺も活気がない。今の日本は当時の情景と似ている面もある。厳しい現実だが、再び元気になるときが必ず来ると信じたい。(1998年11月)
98年の小さな成果?(1998年12月)
去年の「拓銀山一ショック」ほどでもなかったが、今年も荒れた年だった。 私事で恐縮だが、ショック前後に喫煙を止めた。それから1年たつので、経験談を紹介したい。
やめる(少なくともこの1年は)までの喫煙経験は約30年間。最初の10年間の記者時代は執筆中に煙を切らさないほどだった。これで愛煙家としてベースが出来て後は変わらぬペース。それが急に何故やめたのか、とくに理由はなかったが、割とあっさり決別できた。正直にいえば、この1年間にゼロではなく、薦められてついというのもあるが、ともかくやめた。一番恐れた副作用は太ることで、それも何とかパス、もう一方の楽しみのアルコールは反動か多少増えたが、ほぼ1年で所定量になってきた感じがする。
次に効果だが、これは余り感じない。相変わらずせきは出るし最近はかぜも引いた。昔から周りには気を使って吸ってきたので、家族を含めて周囲からはやめたことはそれほど注目されない。それで良いと思う。時代は「分煙」「時間煙」「禁煙」で、逆らってもしょうがない。来年はもっと大きな成果を期待。読者の皆様良いお年をお迎え下さい。(1998年12月)
節約と贅沢(1998年6月)
経済情勢を反映してか、節約が幅を利かしている。「節約王」という人もいるそうだし、テレビ番組で若者による海外貧乏旅行が受けたのも、今から思えば時代の先取りか。団塊ジュニアのこのところの流行は節約と贅沢だとか。食べ物は粗末でも、携帯電話代は月5千円あるいはそれ以上。これだけは節約出来ないらしい。
節約も贅沢も大事。節約だけでなく、贅沢も必要。バランスを保つことで質素でも潤いのある生活が求められているのだろう。秋葉原での売れ筋も、このような傾向を反映しているようだ。普通のパソコンの売れ行きはもう一つだが音楽や映像志向の液晶デスクトップは好調だとか。
携帯は友人との連絡、液晶デスクトップは、どちらかといえば若い女性が購入の中心層らしい。それから高級オーディオ、フラットパネルTVも目立たないが売れているという。自動車や住宅に比べれば、最新ハイテク機器への投資はたいしたことはない。若い女性がパソコンを買うのもキャリアアップが一つのねらい。不況でも売れるものはある。何が売れるか、ハイテク分野は選択肢も少なくなく、恵まれている。(1998年6月)
99年の成果(1999年12月)
もう年末。あっという間に1年が過ぎ去ろうとしている。仕事の面で今年の成果と振り返れば、日本の半導体産業の今後を展望したレポートを発行出来たことだと思う。悪い時期にこの種のレポートをまとめるのは、苦労が多い。悩み苦しみ考え抜き、独自の分析とシナリオを提供できた。大変だったが、それなりの評価をいただけたと思う。
個人的には病気にも縁がなく、この面では助かった。ちょっとした異変は子育てを終えた姉が大阪の郊外で居酒屋を始めたこと。本人にとっては全く畑違いだが、苦労しつつもやっているようだ。
還暦を意識する年にならんとする本人いわく。精神的にはともかく現在は実年齢の7掛けが一昔前の年齢と同じだという。何でも動きがある方がいい。既存の枠を超えて挑戦し、豊かで多様性のある世界を築く。今年の業界は、かなり動きが出てきた。個人、会社、業界それぞれが大きな節目のなかで、変わりつつある時期と思う。この1年のご支援を感謝。良い2000年を迎えましょう。(1999年12月)
小さな物流革命(2003年7月)
最近気がついたことは宅配便の利用が減ったこと。とくに受け取りが減った。海外からの購読物、国内刊行物で去年までは宅配便で受け取っていたものが、このところ電子メールやネット配信になったのが原因と思う。弊社のような小規模オフィスでこの傾向なら世の中全体は、もっと大きな変化か。
弊社が扱うのは情報のみで「モノ」はほとんどないから電子化が進むが、モノが伴う場合はそうはいかない。しかし、付帯した情報は電子化が可能で、さらに効率的に行えば、モノの移動も最適化、効率向上が可能ではないかと思う。大型トラックによる悲惨な事故が伝えられるが、朝までに届ける必要があるなど物流へのしわ寄せが一因ともいわれている。
物流は日本経済の動脈だろうが、一方で情報という神経網で改善は可能だろう。半導体の場合は、他に比べ比較的に小型軽量なことからやり方次第で大きな進歩が得られる物流改革の先兵役になる可能性がある。一方で小さな物流革命の積み重ねも必要だろう。(2003年7月)
いずこも変化(2003年9月)
年に1回会うかどうかの友人と東京の郊外の駅で落ち合い、駅ビル上の飲食店にいこうとしたら改装中。そこで、駅から近い寿司屋にいったら跡形もない。やはり馴染みの店が落ち着けると思い、わざわざ1駅違う店までいったらそこもシャッターが降りていた。
このようなことは初めて。運のなさと余りの変化に二人で笑ってしまったが、世の中大きな変化が進行している感じ。馴染みの店はなくなったのかもしれないが、その一方で有名なチェーン店や若者向けのファーストフード店は増えている。競争が激しくなり、昔ながらの店は荒波にもまれ、形を変えたり、閉店したのか。
半導体業界の競争も負けてはいないが、他の分野も似た様相なのかと思う。観光地に大規模なアウトレットが出来たり、コンビニエンス・ストアは魅力的な商品供給に妍を競う。はっきりしているのは、時代の変化であり、誰にも止められない大きな動きだろう。変化が余り急なのも困るが、乗り遅れるのも困る。(2003年9月)
「プロ」と「アマ」(2003年10月)
アマチュアの写真家が増えるほどプロの写真家は評価が高まるから大歓迎といわれた有名な写真家がいた。このとおりで、時代の流れは、かつてはプロの領域をアマに開放したり、一般化させてしまう。その波に飲み込まれたらプロはプロでなくなる。
仕事が終わり軽く一杯、つい道草というのが習性だが、脱サラばやりもあってか、その場所には事欠かない。しかし、プロかアマか、どうも気になる。グルメではないが、ときたまプロと感じる店に当たることがあり、口には出さなくともプロ根性に敬服してしまう。
半導体の分野も似た傾向があろう。ファウンドリ、ファブレスを含め企業数は増加の一途。歴史のある会社はプロのような存在かもしれないが、セミプロ、アマその他花盛り。プロはプロらしく立ち回らなければ、評価されない。というより数が増えるほど輝きが増すという仕事をやらなければプロではない。(2003年10月)
賑わった連休(2004年5月)
今年の連休は前半が天候に恵まれどこも賑わったと伝えられている。例外なく私も山梨の田舎に出かけたが道路は渋滞、すごい混雑で大変な目にあった。田舎の一本道では、車がほぼ止まったままで、動きが取れない。ようやくコンビニにたどり着けば食品類は払底し、レストランも満杯かつ順番待ちの列。
車だらけ、人だらけで、どこも満員。覚悟はしていたつもりだが、疲れた。過去にも何回か同じ経験をしたが、ここ2-3年はそれほどではなかった感じがした。景気は戻ってきているのかもしれない。
かなり前から5月と11月は少し多めに休みを取り、その代わり他は思い切って働くと決めている。この時期は新緑と紅葉で、自然の変化が豊かというのが理由だが、思ったように休みはとれない。しかし、今回の連休での疲れから再び自発的に休みが取れるような活動の重要性を感じている。(2004年5月)
忙しいのが当たり前(2005年12月)
いつものことだが、あっという間に1年が終わる。我々の業界で「忙しい」、などということをたずねること自体が的外れ。誰もがいつでも忙しいのだ。私の分野に限ってみても、定置定点観測にすら追いまくられる。最新ケータイ、デジタル家電の開発現場は、なおさらだろう。
ハイテク機器の発達が、これらの多忙を補ってくれればありがたいが、インターネットのように世界は情報を血液にして無限に増殖している。ケータイ、DVD、薄型TVどれも進歩は止まらない。わずかの休みの正月に最新ハイテク機器を楽しむためには、今のうちから準備する必要がある。
この忙しさは困る、それとも楽しみを得るための努力。両面あろうが、前向きに考えたい。本誌をまとめたら正月用に「ハイビジョン」のTVとDVDを用意して、思い切って楽しむ。課題は経済的な面と家族の理解だが、まだ少し検討の時間は残されている。がんばりたい。読者の皆様、良いお年を。(2005年12月)
中年以降の価値(2006年7月)
団塊の世代の大量定年が始まり、私もこの世代のどん尻に位置していることから他人事とは思えない。曽野綾子氏によれば、人間として本当の価値が出てくるのは中年以降。それは、この時期になると人は複雑な味を持ち、その人生を感じさせる価値観、判断力などを備えるからという。
自分の出生、家庭、学歴いろいろあったとしても中年以降は、大人として生きた時間の方が永く、その責任は自らが背負う。病気などハンディを抱えた場合は別として苦楽は本人の努力や運とともに歩んできたものだ。親、学歴などを運不運に結びつけるのはこの世代では大人気ない。
戦後半世紀を経て、上記のような考え方は国際社会でもそれほど変わらないと思う。日本は戦争責任をことあるごとに追求されるが、大事なのは、その後の個々の国の努力や責任だろう。自らのそれを棚に上げて、援助や支援などを得ようとする途上国が少なくない。これらの国はもっと大人にならなければいけない。(2006年7月)
ラーメンブームとチップ(2006年12月)
寒い時期はラーメンが体を温めてくれる。そのラーメンには歴史があり、専門家によれば90年代中期の「脱サラ・ニューウェーブ・ラーメン」がブームに大きな影響を与えたという。バブル崩壊後に街に出た素人サラリーマンによる新規店が、既存の業界に新風を吹き込み、人気を高めた。
海を越えたシリコンバレーでは80年代中期から後半に日本の攻勢にあった半導体業界では、PLD、チップセット、ファウンドリの利用によるファブレスなどの新興企業群がうまれた。チップとラーメンを比べるのは無理があるとしても、追い詰められた結果の産物という意味では共通点がありそう。
さて、日本でもハイテクで新興企業群がうまれるか。ラーメンブームの次は何か。チップ分野の構造変化は急。デジタル分野では先端的な大規模設計の一方でPLD/FPGAによる平易な設計の二極化が進む。その変化を捉え、新事業を起こす企業群の登場が待たれる。果たして?(2006年12月)
仕事か、花見か(2007年3月)
今年は暖冬で桜の開花が早まりそう。この時期をいつも心待ちにし、一方で花見までには、仕事も区切りつけ、清々しい気分で春を味わいたいと何やら複雑な心境にある。自然は、なるようにしかならず、そこに自分の都合の仕事を絡めるのは、意地汚いといわれてもしようがない。
事務所の周りには桜も多く、上野公園までは歩いていけることから毎年数回は花見を楽しむ。昨年は、凍てつく花見もあった。しかし、何十年来にわたり欠かしたことがないのは、やはり桜の魅力にはかなわないということだと思う。
現実は厳しく、めまぐるしく変化している。半導体でも、厳しさもあれば、期待もある。パッとさいて散る桜は、気分や発想を変え、新たなエネルギーを与えてくれる感じがする。仕事か、花見か、どちらも大事だが、今年は花見が先行しそうな感じがする。(2007年3月)
新聞、雑誌離れ(2007年8月)
米ニューズによるウォールストリートジャーナルの買収は、ネットの台頭による情報伝達手段の多様化、表現を変えれば新聞、雑誌離れを示している。いずれ日本にも波及することだろう。日本では携帯電話が新聞、雑誌代わり。買い物や旅行の選定や注文、さらには株取引と利用は増加の一途。
宅配制度を維持する新聞社の販売のコストは売上の4-5割に達し、販売店はチラシ配布収入が利益源。雑誌も広告を確保するための部数獲得が最重要課題。購読料が有料、無料であれ、広告を獲得するために部数を維持するコストは、同等とされるという。
既存のビジネスモデルでも無理があればやがて破綻し、新たなモデルが確立されるのは避けられない。私は記者生活10年(電波新聞)が、現在の仕事での出発点となっているが、何かさみしい感じもする。その一方で、新たな変化が業界や社会の発展につながることを希望する複雑な心境でもある。(2007年8月)
神田の古本まつり(2007年10月)
10月末の27日から11月1日まで神田の古本まつりがある。ほとんど毎年出かけており、楽しみにしている。古本漁りは、ある特定の目的をもって行う場合もあれば、たまたまみつけた本が実に興味を引く内容だったりして、その偶然に価値があると思う。
その道の専門家によれば、本の仕入れは10年先をみて行うという。三島由紀夫氏の自殺を予見し、三島の著書を独占的に収集していた某書店がもうけた話は有名とか。またジャンル別にこれからはやりそうな分野を想定し、こつこつと集めることもよく行われているらしい。
古書漁りはよく歩く。書店の店頭にある均一コーナーの100円、200円の安価本に掘り出し物があったりする。従ってリュックのような重いものでも疲れないバックが良い。そして古書漁りで疲れた最後にこの地に事務所を持つ友人に会う。彼とはほぼ1年に一度の出会いだが、このときのビールの味は格別。(2007年10月)
艱難汝を玉にす(2008年4月)
穏やかな気候と思ったら突然の嵐、サクラは見事に散る。景気の方も円高円安、株価変動、値上げ、農薬混入、サブプライムによる巨額の損失等々、何でもあり。いちいち驚いてはいられない。どちらかといえば、主役はわが国でなく海外というのは、少し救われる気がする。
私は、戦後生まれで戦争の経験がなく、世の中に大きな出来事があるたびに諸先輩から戦争の経験を思えば、たいしたことはない。必ず(日本は)乗り越えられると諭されたのを覚えている。そしてこれまでは確かに乗り越えてきた。従って、にぎやかな現在も心配することはなく、努力を重ねることで実りある今後を得ることが出来ると思いたい。
しかし、激しい嵐で足元がおぼつかないこともある。また、そのような立場の方もいると思う。そのときは戦争経験がなくとも、ほんの少し過去を振り返り、多くの困難を乗り越えてきたことを思い出してほしい。艱難汝を玉(たま)にす。(2008年4月)
ちょっとした悩み(2008年7月)
余り触れたくないことだが、髪の毛がほぼ白くなり、相当な年とみられるような感じを受ける。困るのはつい2-3年前に会った友人が私を判断できないことが増え、こちらは知っていても相手はわからず、知り合いと思って近づき困惑、狼狽させてしまう。
このような容貌だと周りから相当な苦労、働きすぎと思われたりたずねられたりするが、それはないと思う。ただし、これもあいまいで人並みの苦労はあるし、相当に働いてもいるが、どこから働きすぎか、判断は出来ない。少なくとも遊びすぎとみられるよりは増しかもしれない。
還暦にはまだ数年あるが、今こそ変化が激しい時期とも思う。仲間、友人でもこの時期に急に老け込み、またある時期から逆に安定するような例をみてきた。健康を害したり、大病を患うのに比べれば、顔つきが変わるのは致し方ない。そのように自分を慰めている。(2008年7月)
夏のノーネクタイに感謝(2008年9月)
今年の夏は、暑かったこともあるが、いわゆる「クールビズ」が定着したと思う。恐らくノーネクタイ派が主流となり、ネクタイなしで失礼しますと断わらなければならない場は随分と減ったと思う。これは良いこと、感謝する。
次は上着で、電車、デパート、ホテル、飲食店など冷房が効きすぎて体が冷えてしまうこともある。一方でオフィスや公共機関では冷房を弱めにしていることから上着を着用しないのが普通。従って場所や時間に応じて上着を使い分ける。これは少し面倒。
夏のネクタイ不要は、かなりの時間を経て習慣となりつつある。規則や習慣、決まりは守る必要があるが、それを変えるのには随分と時間がかかる。これ以外にも、不要あるいはなじまないものも少なくないのだろうが、時間がかかっても同じように変わることを期待したい。(2008年9月)
何とかなる(2008年11月)
何が伸びているか?注文のキャンセル、在庫、企業倒産、売上の焦付き。あぁー厳しい時代。しかし、冒頭の会話は、本当にあった話。確か、液晶電卓の開発が進められていた70年代の後半だった。歳がばれてしまうが、半導体では息も出来なくなるような落ち込み、その反対の払底も良くあった。
最近は余り聞かれなくなったが「天国と地獄」「王様と乞食」のような極端な変転はこの業界にはつきものだった。それも中途半端でなく、地獄や乞食を経験すれば、本当にボロボロとなってしまう例を何度となくみている。
今回はどうだろうか。逆風、嵐が軽微に収まってくれるよう祈るが、これは、わからない。台風、地震それから戦争を含む今回のサブプライムのような人災は、これまでも乗り越えてきたように何とかなると思うことが大事と思う。今回の人災は、思想、宗教とかでなく金融が発端であり、乗り越えられる。(2008年11月)
技術革命 ― 風向きの変化(2003年8月)
景気が周期的な変動を繰り返すように技術の進歩も停滞したり、加速をつける周期性がある。光ファイバーやDSLによる広帯域ネット接続が普及し、無線LAN、第3世代携帯あるいはデジタル放送の開始など、現在は技術革新の普及に勢いがついている。
このような時期は技術革新の成果が一度に表れる傾向があるとされ、事業化の時機と方法が重要とされる。例えば自動翻訳だが、研究は広く行われているが、実用化の時期をめぐっては時間的な揺るぎがあるという。難題は少なくないが、発音や熟語の標本づくり一つとっても、その「広辞苑」作りは大変な作業とか。
しかし、自動翻訳はいずれは実用化のはず。揺るぎは、挫折体験や限られた組織の限界に起因しそう。例えば膨大な手間がかかる辞書作りは共同で行う必要が高い。一方で個々の利用は企業ベースでも良い。犬の自動翻訳機「バウリンガル」がヒットしたのは、偶然でなく風向きの変化もあろう。(2003年8月)
「もったいない」(2009年5月)
旅館やホテルを利用する。必ずテレビがあり、それはデジタルか、それとも従来のアナログか気になる。私の感じでは、従来のものが圧倒的に多い。高級ホテルや都市のビジネスホテルはデジタルが普及しているが、日本全体では、どうだろうか。
機会があり旅館の主に聞いたら既存のテレビの寿命は長く、デジタルへの切り替えは費用の問題もあるが、使えるのだからもったいないという。一般家庭用のように常に利用しているわけでなく、耐用年数は軽く二桁になるようだ。
われわれの立場からすれば最新型のデジタルテレビを使ってもらいたい。しかし、既に使っているものも使えるのに処分はもったいない。この表現はMOTTAINAIと海外でも話題になっているようだが、何かうまい方法はないものだろうか。(2009年5月)
ピンチはチャンス(2009年7月)
少し明るさが戻り、業界の方々の表情も厳しさが緩む面が増えたと思ったりする。このところ体調がいつもより良い感じがして理由を探ってみたら飲む機会が減ったことにあるのではないかと気づいた。確かにこの3-4ヶ月は、いつもに比べたら大幅に減っている。
不況で交際費、出張費は大幅減、さらに個人的にも節約ムード。身を縮めて不況を乗り切るご時勢だが、それを逆手にとるのも一法。私の場合は、意識しているわけではないが結果的にそうなった。より体調を良くしようか、それとも少し控え気味が良いか、欲が出そう。
「ピンチをチャンスに」とは、この欄で1月に使ったが、ピンチはチャンスのこともあり得る。何かしらかのピンチやショックは、変化をもたらし、それを出来れば活かすことで、進歩が生まれる。これは考え方にもよる。健康を害するのではなく、良くする不況と思いたい。(2009年7月)
不安だった1年(2009年12月)
どのように表現したらよいか、ともかく激動の1年が終わろうとしている。今だからいえるが、1年前は、世の中あるいはわれわれの業界、何が起こっても不思議ではなく、1年を無事に過ごすことが出来るのか、不安だった。直感、本能的なものであることから個人的にひたすら心配していた。
一番恐れたのが、いくら悪くてもどこか何かしら良い部分もあるというのがこれまでだったが、今回は世界同時、そしてほぼ全分野。中盤以降は、中国、インドなどが成長を取り戻し、パソコンや携帯電話も数量的にはそれほど落ち込まず、活況とまでいかないが、忙しさは戻ってきた。
そうすると来年は、ということになるが、少なくとも1年前に感じた不安のようなものはない。世界と日本の温度差など、気になることは無論ある。としても今年が何とか無事に過ごせそうなことに感謝している。読者の皆様も良い年末そして新年をお迎え下さい。(2009年12月)
違う生き方(2010年10月)
「日本人だって江戸時代は、一日4時間くらいしか働いてなかったのだ。それで残りの時間は何をしていたかというと、もうひたすら遊んでいた。そして、遊んでいたからそこに豊かな文化が花開いたのだ」と森永卓郎氏がいう。
岐阜の住設部品メーカー、未来工業は年間休日140日、残業ゼロで日本一休みが多くても不況知らずの好業績で知られている。「休みが多いと社員が不安になり、働いている間の生産性が高まる」と創業者の山田昭男氏が語っている(読売新聞9月8日付)。
江戸時代に戻れないとしても、今の時代は発想、やり方を変えた方法が求められているのではと思う。世界が融合するなかで、他と同じやり方では、価値を得にくい。より独自性、違うやり方が求められ、これは別の意味でのチャンスと思えば、前向きな取り組みも可能。良い時代、難しい時代、受け止め方次第だと思う。(2010年10月)
変わる生活スタイル(2010年5月)
一日にラジオを2-3時間程度は聴いている。主に朝食前後、それから片道1時間弱の通勤時にもラジオを愛用。このスタイルがこのところ少し変わり、いわゆるネットからのポッドキャストをプレーヤーで再生、時間に制約されず好きなときに楽しめるようになった。
ところが、ネットから入手できる番組は、豊富で通勤帰宅時はラジオよりも読書に重点を置いていたのが、そうともいかなくなった。どちらにせよ暇つぶしなのだが、永年の習慣が変わるとどこかにしわ寄せがくる。本の消化がおかしくなって、バランスがくずれてしまった。
考えてみれば、情報の伝達方法は広がり、新聞、書籍、TVラジオは新たな波に乗ろうと必至だ。便利な世の中で、生活スタイルも変わっていくだろう。しかし、本質的なものは変わらない。いつも本を何冊か用意していないと落ち着かない癖は直りそうもない。(2010年5月)
「半導体とは何か」
半導体は優等生(1994年5月)
超円高のもとで内外価格差が注目を浴びている。ある試算では、内外価格差が今後5年間で半分に圧縮されれば、毎年10兆円、GNPを2. 2%押し上げる効果がある(日本経済新聞4月27日付け大機小機欄) とか。もちろん、先業者も増えようが、価格差の是正は進もう。時代に反して価格差をより拡大するようなものは、いずれ需要が減り、他のものに変えられる。高い郵便料金、いち早く値上げした新聞等は、この類だ。
半導体の場合は、世界的にほぼ似たような値段だろう。基本的に内外価格差は発生しない。とにかく小さく軽く、持ち運びが楽なのが、このような価格体系を作り出している。仮にある程度の価格差が発生すれば、それは経済原則で是正されよう。極めて健全な市場であり、競争は激しいが発展性も大きい。
見方を変えれば、この産業は常に国際的であり、国境をそれほど意識せずに活動が行われているといえる。一次産品を除けば、このような産業は、 それ程見当たらない。国際的な交流も活発であり、協調も競争も共存している。仮に内外価格差の是正でコンクールとなれば、半導体産業は、常に優等生となろう。(1994年5月)
半導体とは何か、その1(2003年11月)
「半導体」という言葉は誕生して半世紀、この意味するところを的確に表現するのは容易ではない。世間一般のこの言葉に対するイメージはコンピュータとか日米摩擦あるいは市況商品の様相を呈する相場師の世界といったものだろうか。
この原因は半導体が、計算、通信、制御など機能を増やして様々なところに急速に普及していることがあろう。携帯電話にカメラやTVが組み込まれるように常に変化を遂げているのである。これは他の分野、例えば衣服あるいは車のような長い歴史を持つが基本的に変わらないものと半導体が根本的に違う面だと思う。
裏返せば、半導体は無数の顔を持ち自在に変化する役者のようなもの。この早い変貌ぶりが明暗をもたらす。早い変化に強いか弱いか、その対応が競争力に大きな影響を与える。トヨタは強いが、ハイテク企業がもう一歩なのは何故か、この辺にヒントがありそうな気がする。(2003年11月)
半導体とは何か、その2(2003年12月)
前回に続きこの課題を取り上げる。前回は半導体が性能や機能で進歩が速く、絶えることのない変貌が他の分野と異なることを指摘した。最近はIC(集積回路)にソフトウェアが組み合わされ、つまり固体集積軟件回路みたいのが増えている(軟件はソフトウェアの中国語)。
例えばこの産業にかかわる人々はそれぞれ固有の分野を持つ。物理、化学から機械、光学、電子回路、情報処理、ネットワーク、もちろん経済法律などその対象と幅は著しく広い。半導体は複合技術であり、その組み合わせは複雑系でもある。固有の分野だけでは全てを理解できず、かといって軸足がなければ全てを理解することは難しい。
したがって半導体を理解するには、このような複合複雑系の全体や今後を見渡す感性が必要。上に立つ人は感性に加え、独自の勘それから見識、洞察力も求められる。世の中ますます複雑になり、半導体で起こっていることが、他の分野でも起こる。ただし、半導体はその先頭を走っているという見方もあり、この面ではわれわれは恵まれていると思いたい。(2003年12月)
半導体とは何か、その3(2004年2月)
この題名で今回が3回目。1回目では半導体は変化が速いことを紹介。2回目は半導体があらゆる技術が複合集約され複雑系になっていることを指摘した。3番目の今回は、これら「急速変化」「複合複雑系」が何をもたらすか考えたい。
世の中が複雑化していく中で半導体の場合はよりその傾向が強い。既成概念にとらわれない新たな発想や仕掛けが大きな技術進歩や市場を生み出す。しかし、これを実現するためには、半導体の持てる力をうまく理解してもらい、市場や消費者の要望を半導体に具体的に実現しなければならない。
最終市場からも理解される、わかりやすい説明、要望を出来る限り具現化するツール、小口でも費用負担が軽い試作など課題は多い。一番の課題は、複雑複合系の世界で限られた部分にのみこだわり、全体の流れをみる人が少ないことだろう。ゲーム、アニメ、携帯関連アプリなど日本の応用力は見劣りしない。後は半導体側のさらなる努力によろう。(2004年2月)
「商品、好きなもの」
ビジネスショーと計算尺(1990年6月)
展示会やセミナーの季節を迎えた。東京の「マイコンショー」、「ビジネスショー」、米国の「セミコン・ウエスト」、西独の「ハノーバ・メッセ」、また米国の「コムテックス/スプリング」と内外で多彩な催しがあった。もちろん全てに参加することは出来ないが、これらの場はいろいろなことを直接的、間接的に教えてくれる。
私も、駆け足だが「マイコンショー」と「ビジネスショー」に参加することが出来た。既にこのショーは何回も見てきたが、年を追って展示内容が進歩し充実してきているのがわかる。気が付いたのは両ショーとも女性の参観者が増えている感じ。マイコンショーでは、ソフト開発やコーディングを行っているような地味な感じの女性を多く見たし、ビジネスショーでは最新の機器を操るハイテクレディー風が目立った。やがて日本も、欧米のようにコンピュータのプログラム分野では、女性が男性以上に活躍する時代が到来することをこれらの展示会では示唆しているのかもしれない。
それにしても、動きは急だ。私が学生時代だった20年位前は、ビジネスショーといえば理科系は計算尺や製図機、文系、とくに英文系はタイプライターを見に行った。私は理科系だが、計算尺よりもタイプライターのようにスマートで色彩も鮮やかな機械を操ることにあこがれたような覚えがある。今では、計算尺はCAD、メカ式タイプはDTPにとって代えられそうだが、いったい20年先はどのようになっているのか、そこまでは展示会は教えてくれない。 (1990年6月)
パソコンとワープロ(1993年4月)
日本のパソコン普及率はパソコンだけでなくワープロも加えて、計算する必要があり。この見方には、異論もあるかも知れないが、私は賛成だ。両者は市場で競合することもあれば、一体になることもある。VTRとビデオディスクも似たような関係だ。
この月報を創刊(89年7月)した当時には 本誌は日本語ワープロで 作っていた。 やがて、パソコンにワープロソフトを入れて行うようになり、そのソフトも 二代目のものを今回から使っている。恐らくワープロ専用機の方が機能も操作性も優れていると思うが、パソコンの柔軟性も魅力的。いろいろな機械を置くスペースもない。
パソコンも伸びてほしいが、ワープロの市場も拡大し、相互に発展してほしい。ビデオディスクがカラオケで活路を開いたように日本語ワープロは 日本人の知恵が結集された日本独自の商品。子供向けがあったり、お年寄りでも 使える親切なワープロもあるくらいだから、この技術と、経験をいろいろと使わない手はないと思う。(1993年4月)
生産指向、消費指向(1994年10月)
日本電子機械工業会は9月16日、94年の電子工業の生産見通しを昨年末時点から1.5ポイント上方修正したことを発表した。液晶や半導体が好調なことが主因で電子部品・デバイスは3.7ポイント増え、前年比6.3%増だ。結構なことで、GDP (国内総支出)の伸びにも貢献しよう。
この発表自体は、どちらかといえば一般向けで、基幹産業としての電子工業が成長を取り戻して来ていると受けとめられよう。家庭の主婦の立場であれば、年末のボーナスにも少しは 期待が持てるという印象を与えたかも知れない。
このような見通しを聞いて、いつも思うが何故生産の数字しか出されず消費は発表されないのだろうか。最近はオーディオやテレビ、VTRあるいはパソコン等の輸入が増え、生産だけでは 電子工業の動きを把握出来なくなってきている。とくに円高は 企業の国際活動を一段と促し、生産と販売を分けて地球規模で最適化する方向にある。日本車でも外国製が国内で増えている。
欧州や米国の友人と話をしていると、ほぼ消費を尺度にいろいろ考えていることがわかる。こちらが生産を尺度に考えていて、お互いに確認し合わないで、話を進めたら、大きな間違いをおかすことがしばしばだ。理由は調べたことはないが米国の場合、国が大きく内需指向にあったことが背景にあろうし、欧州も域内指向が強い。これに対して日本や多くのアジア諸国は輸出指向、生産指向で、どうしても生産を尺度に考えるのは致し方のないことかも知れない。しかし、パランスが重要、生産も消費も同じように扱う段階に日本は置かれてきていると考えるのは私だけか。(1994年10月)
世界2位、日本の携帯電話(1997年6月)
PHSを合わせた携帯電話の普及率で、わが国は北欧諸国に次いで世界4位に達したという。そして普及率では米国をついに追い越した。加入台数でも米国に続き世界第2位。一時は普及が遅れていたのが、瞬く間に先進国の仲間入り。街頭でも電車のなかでもやたらに携帯電話を使っている光景がみられることから、日本が2位という統計には実感もある。何と力のある国と思われよう。携帯電話がこの勢いならパソコンにも飛び火して、世界上位の普及率や生産台数に達する可能性もありうる。最も携帯電話が伸びてCDの売上が伸び悩んでいるという分析もあることから、最終的には財布の中身がどの程度あり、それがどちらに向かうのか、綱引き次第という見方も。中身をねらっているのは、携帯電話やパソコンだけでなくカラオケ、車、旅行その他諸々だ。96年は「たまごっち」と「プリント倶楽部」に軍配が上がったが、97年は何が主役となるか、関心はつきない。しかし、携帯電話での成果は日本の力として大いに誇り、第2、第3の商品が必ず出現すると思いたい。総会屋に関連した大企業の不祥事にみられる暗いことが目立つ昨今だが、便利で役立つもの、それも新しいものが成功する可能性は、この豊かな国だから高い。それを支える製造技術や技術基盤も豊か。新しいもの、例えば家庭用パソコン、インターネットやネットワーク関連の通信システム、教育娯楽用システムなどが今年の後半から来年は豊富に登場しそうな感じがする。これの実現を大きく支えているのが半導体で、夢を持ち、挑戦している姿は、本当に恵まれた業界と思う。携帯電話での躍進は、次世代の商品開発をめざして日夜努力している多くの関係者に新たな自信を与えよう。(1997年6月)
夢を創り、描く(1997年10月)
エレショーに参加、今年は最終日が休日のため例年より多少余裕を持っていろいろ見ることが出来た。大型平面パネルが出そろいDVDはソフトも増え、カラオケといった応用も登場した。大型パネルは現在では高いがいずれ量産され一般的に出回るようになるのはいつか、21世紀前後だろうが夢は膨らむ。そのころはカメラ、ビデオは完全にデジタル主流。音声入力、音声認識も普及しよう。 日本の家電産業は生産が激減し、その基盤は大変な試練を受けた。落ちるところまで落ちた、地獄を見ましたという話も関係者から聞いた。その苦境が新たな商品を産み出し、再び王国をめざしている姿が会場にはみられた。とりわけ海外からの参加者には日本のお家芸といわれるディスプレイに強力な印象を与えられた例も少なくなかったようだ。期待したい。パネルやDVDは立派だがあえていえばシステム的なものが少ない。身近な問題では家はリモコンだらけで、なにか統合したものは出来ないものか。電話もパソコンもカメラもあるいは台所のハイテク製品も、つながるかまとめて管理できるようなものが必然的に生まれよう。画像の伝送方式はいろいろ提案されているが同時に制御系もほしい。単品も重要だが、これからはそれらの組み合わせや接続したシステム的な使い方が増える。来年のショーに期待したい。(1997年10月)
デジタル家電、期待と不安(2000年10月)
10月初旬に開催された展示会「シーテック・ジャパン」を駆け足でみてきた。目玉は何だったのか。BSデジタル放送、次世代携帯、大型高画質ディスプレイ、家庭用ネットワークどれも印象的。ジベタリアンの学生等、あでやかな説明嬢も目を引いた。パソコンそのものや電子商取引が目立たなかったのは、これらは違う展示会が中心ということだろうか。
出展された製品が大きな市場を確保することを期待したいが、どうだろうか。期待の一方、「高そう」「使い方がむずかしそう」「本当に必要か」恐れ疑いもある。高いのはいずれ解決するかもしれないが、使い方は、より複雑になりそう。余りいいたくないが、私自身はiモードを使ったことがない。少なくとも今は使う気もしない。
こちらが、時代から取り残されているのかもしれないが、ややこしい製品は、使う気がしない。ノートブックのパソコンでも、回りをみれば、利用に関し、肯定派と否定派に分かれる。仮に半々だとしたら市場は半分。余り売れない。それとも最初はマニア向けで、やがて大衆向けに進歩し爆発的に売れるのだろうか。むずかしい。(2000年10月)
夢や挑戦はどこにいった(2000年6月)
半導体関連の仕事にかかわって四半世紀以上になるが、何が変わったか。日本の経営者や技術開発の首脳から「夢」とか「挑戦」といったことが余り聞かれなくなった気がする。かつて時計、電卓、ゲームそれからパソコン初期ぐらいまでは、半導体は常に「可能性の宝庫」であり「無限の可能性」であり「夢の実現」の世界であった。時間を忘れてこれらをめぐって議論されたこともあった。
最近は、このような話が聞かれなくなってきたとしたらその理由は、産業が巨大化し、競争も激化、「挑戦」よりも経営とか投資とか競争の話題が増えてきたことが影響しているのかもしれない。技術開発も個々の技術は高い水準なのかもしれないが、横断的、システム的あるいはネット時代に合致したコーディネートされた話は余り(SCE社長の久多良木氏は別として)聞かれない。
この見方が違っていることを祈る。システムと半導体が一体化し、通信がめざましい進歩を遂げている今こそ夢を描き、挑戦しなければ新たな世界は切り開けない。無限の欲望を抱き、いかなる困難も突破する。昔以上に環境は良い。これが出来ないなら閉塞感や地盤沈下を打破できないのではないだろうか。(2000年6月)
夢はどこに?(2001年10月)
通信・情報・映像機器、関連部品の展示会であるシーテック(千葉・幕張メッセ)を駆け足でみてきた。昨年に比べて人出の少ないのは明らか。とくに欧米系は顕著。同時テロ後で来日中止が相次いだ結果か。携帯各社が配った大きな袋を持った学生が印象的。目立つのは鮮やかなディスプレイで、とくに大型パネルは財布さえ許せば買いたくなる。ブロードバンドやデジタル家電が目玉のようだが、何か物足りないのは私だけか。人だかりが出来たり、噂を聞いたらどうしても見に行きたいという商品は少ない。既に商品化あるいはそのめどがついているものしか展示できないのかもしれないが、これだけ技術が進んでいる時代に不思議だ。夢を売る。無限の可能性に挑戦する。不可能を可能にする。例えばホンダのロボットみたいなものがあっても良い。とてつもないゲーム、AV機器の極限を追求したシステム。中学生や高校生が、飛びつきたくなる未来機器。ハイテクの発展は、不可能への挑戦だったが、それはどこにいったのか。(2001年10月)
需要は豊富(2001年6月)
少し古い話だが、去る連休に親戚の祝宴があり、関西に出かけた。岡山、神戸、山梨、東京などからの出席者の話の中で、光ケーブルによるCATV、ネット接続の具体化が進んでいることが話題になった。既に実現しているところもあれば、近く開通、ネットも楽しめるとか。年配の方で、パソコンを購入してメールやネットを楽しむ人が増えている。問題は、設定がうまくいかなくなったときの対応。家族や友人に頼める場合は良いが、ほとんどは、アフターサービスがしっかりしている馴染みの電器店から購入。量販店がチラシで示している価格に比べれば高いが、親身のサービスが第1の条件とされる。このような話を聞けば、「ドッグイヤー」とか「マウスイヤー」とか、半導体の第一線のあわただしい動きを少し忘れて、落ち着いた気持ちになる。着実にIT機器は普及しており、需要は伸びる。現在は、大きな調整時期だが、やがて成長を取り戻す。(2001年6月)
携帯機器の市場(2002年10月)
ある研究会に所属していたときにパソコンの利用や操作方法の分科会があり、1年間ほど皆が集まり議論を重ねた。ねらいは、いかに使いやすく、誰でも使えるようなものにするにはどうしたらよいかだったと思う。印象に残っているのは、家や仕事ではパソコンを使っても、いわゆる携帯型は使いたくないという意見が多かったことだ。とくに電子手帳さらに進化したPDAと称する携帯端末では、使うグループと全く使わないグループに明確に別れた。また、使っている側がその有用性を説明しても、そうでない側はまったく関心を示さず、両者の間には大きな壁が存在していることを感じた。これは今のように携帯電話が普及する前の昔話だが、誰もが携帯電話を使う時代になって当時のアンチ携帯機器グループはどうなったか。知る術もないが、想像では余り変わっていないと思う。この人たちが使うような携帯機器を作れば、市場は広がる。携帯機器は小さく軽いのが魅力だが、市場は大きく重たいのが良い。(2002年10月)
デジタルメディア革命(2002年9月)
CD−ROM、DVDなどの利用が急速に進んでいる。決まった定義があるかどうかしらないが、これがデジタルメディアであろう。カセットテープやビデオテープと異なりデジタル技術で記録・再生していることから検索、表示それから編集にも使い勝手が良い。一方で、表示も例えば最新液晶ディスプレイは解像度でCRTを上回るものもあり、デジタルメディアの利用を促進させよう。 こうなると多くの媒体はCD-ROM、DVDあるいはネットで提供される。分厚い百科事典全集が古本屋でただ同然に売られているのも時代の流れかもしれない。われわれのような仕事は外部倉庫も使って膨大な資料を保存しているが、いずれはデジタルメディアに移行、恐らく仕事の仕方が変わる。夢のような話だが、実現にはそれほど時間はかかるまい。ありがたい面ばかりでなく、著作権の保護や保存情報の寿命など課題もある。これらの問題にうまく対応すれば、デジタルメディアは新聞、出版、教育、放送、娯楽、印刷など多分野に革命をもたらそう。半導体の需要も急増する。ギガバイト級時代の到来だ。(2002年9月)
棚にはならない薄型TV(2004年7月)
秋葉原でも郊外の大型専門店でも薄型TV、DVDなど新デジタル機器の展示にスペースを確保、熱い商戦が展開されている。オリンピックも近づき、きれいな画面で、迫力のあるシーンをみたい。それからDVDを活用したい。
実はまだ購入を決断していない。気にしているのは、現在のTVの処分と、それを置いてある台をどうするか。今のTVの上には置時計と友人からのみやげ物などが飾ってある。薄型TVとなると、棚を別途あつらえる必要があるが、今の置き場所や台には愛着がある。家族は、変化を好まず、薄型も良いが、台も不可欠という。TVの上が指定席の猫もいるとある本で読んだ記憶もある。
いくら薄型TVでも、DVDと組み合わせたらそれなりの奥行きもあり、台も必要になるが、既存の台ではしまらない。思い切って全て新しくすれば解決する問題なのだ。しかし、薄型が全て良いわけでなく、既存のTVの収納家具的な機能と風格も捨てがたいものがある。(2004年7月)
標準化の努力、忍耐、苦渋(2005年5月)
次世代DVDの標準化が実現しそうである。規格の異なる二方式を一本化、ソニー、松下および東芝その他の関連企業が話を進めていると伝えられている。既にブルーレイ方式のセットは発売されており、この段階での一本化はまったく予想されていなかった。早期の実現を期待したい。
私が駆け出し記者の頃、VTRの標準化争いがあった。直接、取材する立場ではなかったが、聞いた話は記事には扱われなくとも実に虚虚実実、いかに標準化が難しいものか、肌身で感じた。また、一夜で陣営の枠組みが変わる予想を超えたどんでん返しもあったと記憶している。
今回のDVDの一本化でも、それを実現するための当事者の努力、忍耐、苦渋は当時とそれほど変わるまい。しかし、それを何とか乗り越え、一本化に見合う成果を勝ち取ってほしい。世界が見守っている。ハイビジョンの普及で次世代DVDの需要は確実、あとは出来るだけ早く商品を供給することだ。(2005年5月)
進歩に追いつけない(2005年9月)
携帯電話、パソコンさらにはDVD、デジタル携帯オーディオ、次々と新製品が登場する。仕事柄、本来は、これらの新製品を使い、知識を得て、これから売れそうなものを考えることは必要だろうが、なかなか追随できない。
一方で、常に最新の携帯電話を使い、携帯オーディオも数種類を持ち、話題に事欠かない友人には敬服する。しかし、経済面はともかく、相当なエネルギーがないと使いこなせないのではないかと余計な心配をしている。
新製品にすぐに飛びつく新しがり屋は、われわれの業界にとっては大事な方々だろう。あふれる新製品の中から、これはいけそうだと思われる使い方や価値を探り当て、それを広めてくれる。ネット時代は、なおさら情報の伝播が早い。この分野は、まだまだ限りなく進歩しそうな感じであり、この面ではわれわれの業界は本当に恵まれていると思う。(2005年9月)
ゴールドラッシュの再現?(2006年1月)
米国のシリコンバレーだけではないだろうが、活気が戻ってきているとされる。とくに好業績のグーグルやアップルの周辺は、かつてパソコン市場が離陸したときと同じような熱気が感じられると米国の友人がいう。ネット、メディアの融合が本格化、その受け皿のハード開発は、夢がつきない。
パソコンの普及は、個人の仕事や社会に多大な影響をもたらし、さらに携帯電話が新たな変化を与えている。それに次ぐ新たな波がiPodを一例に到来しつつある。ゴールドラッシュを彷彿とさせ、新たな鉱脈を探して目を輝かし、変化を創り出す挑戦が盛んだ。
今回の新たな波の衝撃は、パソコンや携帯並みか、あるいはそれ以上か。考えただけでもドキドキする。新たなハードやサービスによって生活や社会がより便利、効率的になるのは、すばらしい。それがポスト・パソコンあるいは携帯か、わからないが、知恵や技術は、夢を与え、現実のものとする。(2006年1月)
モノとサービス、どちらが大事?(2006年3月)
それほど持ち物にこだわる方ではないが、使っている携帯電話の利用期間が5年以上になったと知り、そろそろ次の機種と考えている。もちろん今の機種は何ら故障もなく、まだ使えそうで、優れた製品であることを感謝している。
困るのは、次の機種の選定で、いろいろと便利そうなのが増えて、決めるには時間がかかりそう。秋葉原や各地の大型店を見て回るのは大好きだが、少し待てば、新製品が登場するし、値段も下がるだろうなどと考えていると、なかなか決断が出来なくなるものだ。
これは、私が携帯電話をまさしく電話としてしか利用せず、メール、ウェブ・アクセスなどのサービスを余り使わないことが一因だろう。音楽配信、TV、ラジオ、GPS、お財布代わりなど最新サービスを意欲的に使うには、新しい携帯が良い。モノかサービスか、どちらか、両方か、悩む。(2006年3月)
精緻かつ優雅の伝統(2006年11月)
半導体やディスプレイの進歩は、薄型TVにみられるように形状はシンプルかつ省面積を実現する。そのため商品はどれも見た目には似た形状で、違いは少ない。しかし、シャープのワンセグ受信可能な携帯電話のディスプレイはディスプレイを回転させれば、見事にそれが電話本体の上部の中央に移動し横長画面となり、見やすく、すばらしいからくり。
ノートパソコンでもディスプレイを回転させたり、本体から少し持ち上げてキー操作のスペースを確保し、狭い車内でも使いやすくしたものが出てきた。限られたスペース、重量の範囲のなかで、アイデアを活かして使い勝手を向上させた、気の利いたメカニズムが商品価値を高める。
西洋ではドアだが、日本は引き戸。扇子や屏風の文化がある。今では余り使わないが、昔はTVを箱の中に入れ、使うときはおごそかに扉を開いてみた。その扉の開閉方法はドア型、引き戸型それぞれ何十種類もあった。当時のTVは超高級品だったが、それが納まる箱は劣らず精緻かつ優雅で、日本の伝統がしのばれるものだった。(2006年11月)
便利だが、乱雑(2007年6月)
東京の郊外に住んでいることから通勤はバスで駅に出て、それからJRでお茶の水駅のルートを使う。いつも利用しているバスは、まだIC共通乗車券の「パスモ」対応でなく、順次、読み取り装置などが取り付けられサービスの開始を着々と進めているとみられる。
バス1台当たりのその費用は70-80万円、主な装置だけでも4点の装備が必要らしい。読み取り書き込みだけなら良いが、トラブル時の読み取り、データ表示制御など検査修正も必要。あわてものの私は、駅では自分のカードを調べてもらうことが何回かあったが、バスでも同じことは起こりえる。
他人事ながら最新サービスへの対応は大変だと思う。バスでいえば、硬貨紙幣、磁気カード、パスモなど複数の方法に応じなければならない。結果的に料金収集のいろいろな装置が追加され、乱雑に取り付けられている。いずれはスマートな形に集約されるのか。さらに増えるのか、余計なことを心配している。(2007年6月)
出遅れでも福あり(2010年12月)
1年前のこの欄は「不安だった1年」と題して金融危機下を何とか無事に過ごしたことを紹介した。それに比べれば今年は、業界がV字回復を果たし、様変わり。暖かく、落ち着いた年となりそうなことに感謝、順風満帆とはいかなくても、最悪期を脱したことは間違いないだろう。
少し気になるのは、話題の商品、スマートフォンそれからタブレットPC端末ともに購入のチャンスを逃してしまったこと。何度か店を訪れたが、実現しなかった。年末に来て新製品も相次ぎ登場、どうせならもう少し待とうという気持ちも出てくる。
スマートフォンは今年のヒット商品番付で横綱級だが、出遅れたわが身としては開き直って時期を待つ。帰りの電車で夕刊を読む人は随分と減ったと感じるが、来年は朝でも紙の新聞をみる人は減るのかもしれない。それならば、余計時間をかけても使い勝手の良いものが欲しい。出遅れでも福あり。(2010年12月)
「半導体市場、製品」
半導体係数とエンゲル係数(1992年1月)
半導体の注文が振るわないという話は少なくないが、昨年の12月は激減という話を第一線で営業活動を行っている複数の人から聞いた。とくに在庫が可能な汎用的な標準ロジックや個別半導体にその傾向が強そうで、どうも電子機器や産業機器メーカーは在庫を大幅に削減しているのではないかと第一線では推察されている。
私は、いくら景気が不振でも極端な落ち込みは有り得ないと思っていたので、半導体の利用者の間では、場合によっては必要以上に製品のみならず半導体自体の在庫を減らしているのではないかと感じた。これが発生すると半導体の市況に大きな影響を与える。よくいわれるように最前線の情報はやがて工場に伝えられ減産に、ところが需要が増えても増産の効果が出るのは3―4ヶ月必要だ。
例えは悪いが汎用品はネジや釘と同じで、食料では米みたいなもの。大きく伸びもしなければ極端に需要が減少することも有り得ない。米の消費はエンゲル係数ではないが、年を追って低下傾向にあるかもしれないが、半導体の場合は着実に増えているはず。そこでわが国の電子機器に対する半導体の消費比率を計算してみた。
グラフに示すように83年を除けば着実に増え83年の食べ過ぎは 84-86 年に調整済み。その後は順調で消化不良も節約し過ぎ見受けられない。それは昨年も含めて電子工業発展の血となり肉となり、エネルギー源となっているはず。だから極端の受注の減少は有り得ないと確信したい。半導体は昔と違って子供のように食べ過ぎや食いだめが出来なくなってきていると考えるのは、私の年とは無関係と思いたい。(1992年1月)
価格破壊と半導体(1993年10月)
ディスカウント・ストアーやアウトレットと呼ばれる低価格を売り物にした店が勢力を伸ばしている。安売りの背広や酒屋さらにレストランの低価格メニュー、サービス分野でも若者やサラリーマン向けに屋台村が都心でも相次ぎ登場し活況を呈しているとか。
先の連休は、どこに行くわけでなくブラブラして、新装開店の低価格メニューのレストランに行ってみたが、昼時のため20分程待たされたのを除けば480 円のランチでも味は落としていない感じがする。何より親子3人で1 500 円以内というのはありがたい。
この値付けは「中食」といわれるコンピニェンスストアや持ち帰り専門店の価格に対抗したものだろうが、大きなオフィスでは、このところさらに安い仕出し弁当の注文が増えているという。価格引き下げの代表例は、かつての電卓や時計で、その実現には半導体が貢献した。しかし、最近は輸入のパソコンやAV機器を除けば、低価格の話題は、他の分野にもっていってしまわれた格好だ。単なる安売りは長続きしないが、世の中の趨勢が、新たな方向に向かっているときは、半導体でも貢献することが大事だろう。それが新しい需要や市場を創造する。もちろん価格破壊と、既存の枠組みを上回る利益確保が同時に果たされなければ、単なる破壊者になってしまうが。(1993年10月)
ベンチャー考(1993年9月)
政治も経済も戦後総決算の大きな節目。半導体でも80年代中期の日米逆転から再逆転へ。このような時こそ「変革期」という表現が当てはまろ う。世の中全体が変化しつつあり、また、変化が求められている。大企業や個人を問わずべンチャー精神の発揮が必要とされ、それは英語の直訳のように「冒険」「投機、やま」であり、ある時は「ギャンブル」ということだろう。
その木場は米国で、経済活性化の原動力の一つ。日本はどうか。異論はあろうが、私はNECのパソコン事業は日本での大成功例の一つと思っている。 石油危機後の仕事のない時期にマイコンの販売促進を目的にキットを売り出し、それがやがて「98王国」につながった。ベンチヤ一たる所以は育て上げたのが半導体部門で、市場を創り変化に柔軟に対応出来たのは、素人集団だからこそ。これを電算機部門が行っていたら違う歴史になったかも知れない。
パソコン普及の初期は関連した催しの都度、大内さん(現相談役、前会長)、松村さん(現ト一キン社長、前NEC副社長)ら幹部が必ず出席、 当時営業総括を務めていた関本さん(現社長)は「マイコンとパソコンとは 違いますよ」といわれていたのを妙に覚えている。今だったらさしずめマルチメディアを普及させるようなもの。 歴史が繰り返すならこの分野もベンチャー精神、 市場や商品にかける情熱それから、啓蒙活動で、花を咲かそう 。(1993年9月)
設計と製造(1994年4月)
ある設計専門会社の要請で3月は半導体の設計と製造に関して、講演を何回か行った。「設計」と「製造」は半導体事業の両輪であり、重要性は比較しょうがない。ともに最適な組み合わせで製品として時機を得て市場に登場すれば、最強の力を発揮する。
問題は日本での設計専門の会社は、これからどの程度発展出来るか、日本の設計力は米国等に比べたらどうか、ということだろう。簡単に結論が出そうな問題ではないが、例えば設計上での 希望した性能が得られないICを日本メーカーが設計し直したら十分実用になったという話も少なくない。しかしASIC、マイコン、DSP等の設計装置やソフトウェアでは米国勢が強い。
それでは設計装置や関連ソフトウェアで何故米国が強いか。いろいろな原因があろうが例えばDSP分野だけでも関連企業は2-300 社もある。同じことは日本での製造、材料関連でもいえる。歴史の違いでありインフラストラクチャの違いであろう。この視点でみれば米国が製造で本当の力を持つには、大変な努力を必要とするだろうし、日本の設計力も米国並になるのは時間がかかる。共に強ければ理想的だが、そんなに恵まれていたら逆に発展しなくなるといったら言い過ぎか。(1994年4月)
成功の条件(1995年5月)
約1年にわたりアジアを中心とした半導体電子工業の調査研究を進め、ようやく区切りが付いた。どちらかといえば、従来は欧米関連のテーマが多く、アジア関連で掘り下げたことは余りなかった。それでなくとも、定期的に訪れてくれる人々がいるし、また、いつでも行けるといった近さが、そうさせていたのかもしれない。
今回の研究の結論は、「アジアでも成功する企業が、今後の世界市場で成功する」となった。この地区は家電を始めパソコン、周辺端末等の情報機器の世界の生産基地になりつつあり、日系はもちろん欧米企業でも、いろいろな連係は深まる一方だ。その「活力」「熱気」「変化」「挑戦」は、先進国の技術、資本、ノウハウ抜きでは、成長に限界がある。そこにアジアでも、という表現を当てはめた訳がある。
80年代の後半は世界的に「日本で成功することが世界で成功する条件」といわれていた。今の超円高、地下鉄サリン事件に代表される社会不安の世の中で、日本での成功は、余り引用されなくなったが、決してそうは思わない。何故ならアジアが好調といっても単独では、あり得ないのだ。1+1=3 の組合せが求められるのであり、それには日本でも成功しなければならない。日本に対するアジアの期待は高い。(1995年5月)
先を見る(2001年4月)
国や企業に興亡があり、ものにも盛衰がある。半導体製品でも寿命はあり、メモリやMPUの品種では世代交代がみられる。半導体の場合の寿命は技術進歩に加速がついていることから個々の製品では総じて短縮。これはパソコンや携帯電話の新製品サイクルと同じだろう。変化が早い。伸びると見られていたのが、駄目だったり、意外な製品が良かったり、複雑だ。将来性、適用される技術、市場の要求、競争環境などが複雑に絡みあい、盛衰が左右される。これは表面的な見方だが、実際は先をみた行動や厳しい競争下で生き残ろうとする当事者の情熱や志が製品や市場に息吹を与え、大きな成果を生む。いくら変化が激しくても、先を見て、こだわりを持てば、必ず道は開けると思いたい。技術的な限界や依存する市場の縮小で衰退する製品は、致し方ないかもしれない。しかし、DRAMのように人為的な錯誤で悲惨な結果に陥る製品は、不幸だ。どうしたら救えるのだろうか。(2001年4月)
汎用品と受注品、どちら?(2002年6月)
円安の追い風も合って前期は空前の利益を確保したわが国自動車産業。円安ばかりでなく「ゴーン旋風」といわれるコスト削減効果も大きく貢献。鉄鋼業界は、値下げ圧力に反発して最近は対決姿勢を鮮明にしている。半導体業界も値下げ圧力は高く、決して他人事とは思えない動きだ。ところで、鉄鋼の場合は自動車での値下げ圧力は大きいが、それが見られないのは建設業界。国内需要の半分を占めながら自動車と違って値下げ圧力をかける動きはみられないという。これは何故か。自動車向けはメーカーごとに異なる受注品で、鉄と自動車は価格も直接交渉。かつ自動車メーカーの数は限られる。建設業界は、これに対して汎用品を使い、かつ商社や鉄系列も含めた加工会社経由。鉄と建設の間での直接交渉はありえず、価格は市況依存とか。 建設会社は全国で60万社もあり、大手ゼネコンでもシェアは1%−2%に過ぎず、ここが自動車と異なる。半導体でも、汎用品では無数のユーザーに需要があるのは鉄と似ている。一方、システムLSIは受注品であり、DRAMなどは別として少量、多品種の汎用品の方のが値下げ圧力が総じて低いのも同じ。汎用と受注品のどちらが良いか、判断が難しいのは半導体でも鉄でも共通している感じがする。(2002年6月)
「半導体市況、予測」
猫の目のように変わる半導体市況(1990年3月)
梅が咲いたと思ったら、すぐに桜の季節。時間はまたたく間に過ぎ去り、半導体の市況も猫の目のように変わる。メモリが余っていると聞いたのは3か月前だったが、米国では値戻し気運が出てきたと伝えられている。これほど変化の周期が早くては一時であろうと目が離せない。
産業規模が大きくなった割には短期間で局面が変化するのはどうしてだろうかと思う。私の短い経験でも、かつては新しい動きが出るまで3か月あるいは半年程度の前兆現象が見られ、その後に本格的な動きが見られたり、その逆に3ヵ月あるいは6か月のズレが地域的に生じたりした。
そのような動きが少なくなったのは、いわゆる人為的、政策的な進歩の結果とも見られるが、何かもうひとつ釈然としない。新たな発想が必要とされようし、さらに何が起こっているのか、見極めていくことが大事と思っている。(1990年3月)
悪い情報は吉(1991年9月)
4MDRAMの需要が伸びず、もう秋風が吹き始めたといった半導体メーカーにとって悪い情報が連日新聞等で伝えられている。思えば今年は湾岸戦争、金融証券不祥事、ソ連政変と、重大な出来事には事欠かず、何が起こっても不思議ではないのかもしれない。
半導体に戻れば、この産業は常に変化し、市況もすぐに変わる。4〜5年前に半導体メーカー関係者が、自分達の立場を示すのによく言っていた、天国と地獄といった極端な変化はこのところみられないが、市況にしてもちょうどよいという状態はないのではないかと思う。厄介なのは、悪いという情報はやがて来る回復を示し、好調というのは、次に来る不振の前兆で、それは特有のサイクルとタイムラグを持っていることだ。
仮に半導体メーカーをタクシーとし、半導体利用者をお客とすれば、タクシー会社は良質なサービス供給が必要だろうし、ユーザーはいつでもタクシーが利用できると考えるのは間違っていよう。タクシーが駅前に長蛇の列をなしているのも異様だし、都心でみられるように深夜や雨降り時には、いくら待ってもタクシーがつかまらないというのも困る。傘を早めに用意する必要が有るし、需要を把握する必要があるが、こういう私もタクシーでは苦労している。(1991年9月)
予算が立たない(1992年2月)
4月の新年度を控えて、予算が立たないという話をよく聞いた。特に積み上げ式ではいくらがんばっても、前年比プラスはむずかしいというのが多くの意見。
いちばん簡単なのは、景気が低迷した昨年末と今年1-3月の数字を基本に考えることだが、そうすると今年上期 (4-9月)は、大きく落ち込む。
振り返ってみれば半導体の売上げは過去4-5 年で見通しは常に日本が世界で一番高く、80年代の後半はそれに代わってアジアが躍進してきた。もちろん、見通し通りの年もあれば大きく狂った年もあったのは、いかに見通すことが困難か、物語っている。
問題は今年あるいは今年度だが、売上げに関してはゼロかマイナス成長を想定した方が無難と思っている。もちろん半導体では弱気は禁物と言い古されてきたが、無理して伸ばせば必ず歪みが生ずる。今年は売上げより利益、さらに諸々の将来投資が重要で、業界全体が調整区間と私は思っている。一方、個々の企業によって見通しが異なるのは、当たり前で皆が同じような成長をねらう横並びも少なくなろう。それにしても春が待ち遠しい。(1992年2月)
続 予測について(1993年11月)
再度予測についての見方を紹介したい。短期予測を開始し、ちょうど二年になり、その一部は本誌でも紹介している。概ね予測の精度は悪くなかったが、前回と今回では差が目立った。7月から9月までの第3四半期は、輸出も輸入も大幅に増え、生産も消費も好調、6 月から表面化した円高も全く影響がなかったようだ。
確かに振り返ってみれば、この期間は市場で足りなくなるものが目立ち、また、 受注は年内には消化し切れないという声も聞いた。7月4日の日曜日には 半導体材料のエ ポキシ樹脂工場で 故があり、全世界に供給不安が 広がり、スポット市場でメモリ価格は高騰した。短期予測では、製品別の需給傾向は反映させるようにしているが、事故の影響を盛り込むのは、不可能でないとしても、限界がある。
仮に第3四半期が、通常の傾向や季節循環を上回る伸びとなっていたら、 それは他の要因が影響したということになろう。米国市場で深刻化している 供給不足が日本市場に波及し、水増し発注と供給につながった恐れもあるし、エポキシ樹脂事故の恐れが、過剰発注を招いた面は否定出来ない。 問題はその度合いだが、この先2四半期(6 ケ月)は注意が必要だろう。 この点を予測出来れば良いのだがなかなか難しい。細心の注意を払い、適格に予測を続けていくことが一番と思っている。(1993年11月)
正常と異常(1993年8月)
世界的に水害の多発、頻発する地震、さらに暑くならない気候と異常な夏になってしまっている。海の家は開店休業のありさまで、長年開いている店主もテレビで、こんな経験は 初めてとあきらめ顔。今年は夏が来なかったということになろう。
半導体ではメモリ分野が忙しいことから一部の企業は夏休みを返上して 生産していると伝えられ、景気低迷下で唯一ともいえる明るい話題だ。しかし、 住友化学の事故の影響も懸念され、関係者は対応におおわらわ。異常な気候と相まって、夏休みの気分どころではないという向きも。
よくいわれることだが、世界の標準品といわれるメモリの需給では、正常というのはまずはない。足りないか、余っているかのどちらかで、それは猫の目のように 変わる。売る側からみれば、少し足りないのが良いが、買う側はその逆を望む。 正常な状態が無い訳だが、これからは需給に注意して出来る限り異常を避けねばならない。とにかく敏感で、少しの刺激で大きく変化してしまうのだ。 (1993年8月)
不況からの脱出(1993年5月)
新緑が目に焼きつく季節となったが、なぜか気分は重い。本郷辺りは、このところビルのテナントが減り、新たに募集する看板が増えたような気がする。不況が長期化し、さらに、ここ1ケ月程は円のドル相場が110円を割り、史上最高値とそれに追い打ちをかける。
4月からの新年度からは受注が好転しそうだから、それまでは辛抱して何とか苦境を乗り切るという話をいろいろな会社の人達から聞いていたが、そのようなシナリオも実現するか、難しい。そうなれば、さらに新たな対策を用意しなければならない。連休での人出は例年に比べ大幅減で、不況がまた一層の不況を招く悪循環になってしまう。
今までが良すぎたと言ってしまえばそれまでだが、突破口を見つけなければ、経済はより弱体化し、人心も荒れよう。エレクトロニクス産業、とくに半導体は突破口でなければならないと思っているのは私だけではないと思う。問題は、どのような方法で、いつかということだが、それほど時間はかかるまい。昨年後半当たりから、大きなインパクトを与えそうな話をいくつか聞いているし、最近の状況は、今までは出さなかった奥の手も使わざるを得ないと言われるほどに厳しいからだ。(1993年5月)
打たれても強い産業(1993年2月)
92年の統計結果が出そろうにつれて明らかに。前年比で20%減はまだ良い例で30%減、なかには工作機械受注のように半減に近い例も。改めて数字をみれば激動の年であったことが、納得できる。いかに悪かったか、それを確認することが次の発展に結びつく。問題は93年が「V字型」「U字型]あるいは「フライパン型」どのような回復をたどるか、議論の別れるところだろう。「回復には時間がかかる」というのはなかば共通した見方かもしれないが、いかに回復 図るか、それが焦点。
ある程度わかっているのは 従来の延長、継続では回復にも限界があり、変化を必要としていること。かつて電卓での過酷な価格競争が、結果的にマイコンを生みだしたような変革が水面下で着実に進んでいると信じたい。いままで好不況の波を何回となく経験した半導体産業は、大不況の逆境下でも打たれ強い筈。
皆が不振であえいでいる時期は、それを乗り切る努力を始め、発想、知恵、様々な力は倍にも二倍にもなろう。いまこそ、このような力を結集する時期のような気がしてならならない。(1993年2月)
品不足で明け暮れた94 年(1994年12月)
またたく間に94年が過ぎ去ろうとしている。自分なりに振り返れば、この一年は、よく歩いた。春には「日本の外資50社」、秋には「日本のユーザー55 社」のレポートを発行、一年中日本列島のなかを動き回っていた感じがする。
いろいろと印象に残る話を聞くことができたが、一年を通して共通していた話題は「品不足」でないかと思う。それも月を追って深刻な例を聞くようになったのは品不足の影響を直接受けるユーザー回りが多かったのと関連していよう。品不足の要因の一つは明確に需要の判断が出来なかった結果だが、今年の場合は、ユーザー側でもアジアを中心とした生産が大きく伸びるとは、判断されていなかった例が少なくなかったと思われる。
もちろんユーザー側だけでなく注文していたのにその量が計画通りに入らなかったり、先行きの枠をせばめられたという話も目白押し。この場合は供給側の問題だ。「売り」と「買い」どちらがお客か、本末転倒の例も少なくない。来年も、このような状態が続くのだろうか。いずれにしても、需要家側、供給家側 双方が情報交換を密にして、共に発展するのが一番だ。これは日本人の得意とする所でもある。だから来年はもっと発展すると信じて、しめくくりたい。(1994年12月)
予測が当たらない(1995年2月)
先行き3四半期分を予測する半導体市況短期予測を始めて4年目を迎える。92年と93年の最初の2年間は、精度は悪くなかったが、93年後半から94年前半は残念ながら的確な内容とはいえなかった。例えば1年前は、生産の94年の伸び率でほぼ横ばいの低成長を想定したのが、結果は二桁の高い伸び。
この予測は3ケ月毎に更新することから次の5月には7%増、 8月には1 0%増と修正したが、94年の2月が大きく狂った。しかし、原因は明確で、国内での半導体消費と電子機器生産とが、上向きと下向きくらいの違いをみせ、結果的にはアジア・シフトが 国内の半導体需要に結び付いている面がわかってきたのは 本誌でも既に何回か取り上げた通り。そこでの結論はアジアの動向を十分にみなければ半導体の国内消費をつかめないということだ。
だからそれらの要素を取り入れようとしているが、正直なところ限界は少なくない。半導体ユーザーはこぞってアジアで拡張しており、そのパワーはどれほどのものか、誰も全体像はつかめないと言っても過言でないかもしれない。世界的な競争であり、予測を越える現実がとてつもない勢いで進行している。決して弱音を吐きたくないが、難しい時代の到来である。それでも一歩一歩努力を 重ね予測の役割を果していきたい。(1995年2月)
加熱から正常へ(1995年10月)
半導体産業の景気は至って好調。現在は加熱状態といえよう。文字通り余り熱くなり過ぎて何か異常が発生したら困ると思っている向きは少なくあるまい。しかし、車の運転と同じで周りが100Kの高速で走っているときは それに合わさなければ 危険は増す。
同じような経験は83年、84年の超好況期もあった。その当時、ある半導体メーカーのトップが「資源が枯渇した」といったのを印象深く覚えている。注文は限りがなく、資金も投入できる。しかし、あらゆる限界が発生し、正常な判断が難しくなるような状況だろう。当時は、その後の大不況と困難な事態に 陥ったが、今回はそうなるのか、加熱から正常に戻ることを望むばかりだ。
先月の本誌でも紹介したが、今回の成長は、従来の繰り返し、周期変動とは異なる面が少なくない。産業が「改変の出来ない変革期」にあるとは、言いえて妙だが、仮に新たな成長期に入っていたとしても、それを理解できるのは、今後何年かして新たな歴史が作られた後だ。ということは、今の状態を理解するのは、難しい。智を越えているかもしれないが、仮にそうであっても変革に立ち向かい、生産性を高め、総意工夫で新たな歴史を作ることが大事だろう。(1995年10月)
96年に悔いなし(1996年12月)
いくつか自分で決めたやりたくないことがある。一つは、結果が出てから、前の話を持ち出して、いかにも、その時の予測や指摘が正しがったか喧伝すること。今年のメモリ市況は、現在の最悪の状況を確か1年前あるいは春先に警告する見方があったとみられるが、結果からみれば それらの見方は活がされなかった。
もしもこうしていれば、そんなことはなかったという話は良く聞く。しかし、結果が出てからでは何にもならない、それでも、言いたくなる気持ちはわかるが、少しでも責任を感じるのなら何故活かされなかったのが、どうしたら活かされるか、そちらの方が重要だ。前にも書いたが、私がいわないことを決めたのは半導体の予測でもこれまで残念なことが少なくなくなかったからだ。
去る11月末に開催したどうなる日本の半導体のセミナーは、97年あるいはそれ以降のビジネスに役立てていただけそうな材料を多少とも提供出来たと自負している。市場環境は厳しいが備えあれば憂いなし。大事な点を押さえれば成長は自ずとついてくる。「上げ潮だ」がテレビでよく登場した年だが、そうなる。96年に悔いなし。97年が待ちどうしい。読者の皆様も良いお年を。(1996年12月)
どうなるか、わからない(1996年4月)
メモリ市況をめぐって、いろいろは見方が交錯している。焦点は、春の変調がいつ落ち着いて、その時に価格や需要はどうなるのか。夏あるいは秋当りには回復という見方がマスコミを通じて散見されるが、その根拠や見通しは、定かではない。もし、わかったら、それは大変なことだ。市況が荒れてない時期でもたまたま当たったというまぐれによる結果論を除いて、先を見るのは限界がある。
メモリが今後どうなるか、もっとも正直に示している一つの材料は米マイクロン・テクノロジ一の決算書と何時も思っている。それは今後どうなるか、あらかじめ質問が多そうなことに対して会社の見解が乗せられているが、常套句は「どうなるか、わからない」といったものだ。
もっともあちらでは、株主の力は強く、仮にも責任が取れないようなことを 述べ、投資家を裏切ったら、すぐに訴訟だ。
日本も同じだろうが、米国ほど直裁でない。ロの悪いアナリストは、そんなことになったら、日本の電機メーカーの経営者は誰も今ごろ残っていないというほどだ。とまれ、先がわからないのはある面で真実だろう。メモリのような汎用かつ躍動的な製品では、とくにその傾向が 強い。わからないからそれなりの対策を 立てる。わかりづらい話で誠に恐縮している。(1996年4月)
グローバル、構造変化の時代(1997年11月)
今年は半導体が発明されて50年、半世紀が経つ。輝かしいゴールデン・エイジと名付けられた関連した催しも世界のあちこちで開催されている。これまでがそうであったように21世紀も間違いなく半導体が夢を現実のものとし、人類に貢献しよう。しかし、発展のしかたは従来の延長ではなくなるかもしれない。というよりも半世紀を経て必然的に変わろう。ICが発明され、TTLが登場しマイコン、メモリそれからASICと大きな発展をもたらした進歩があったが、次は何か。一つはグローバル時代に入ったことだろう。米国生まれの半導体は今や世界中で作られている。次に半導体の開発はファブレス、チップレス、最近はデザイン会社を中心に設計用の部品つまりIPコアを手がけるところが目白押し。簡単にいえば半導体技術の進歩は従来の電子システムを一つの半導体に集約出来るところまで進み「どのように作るか」でなく「何を作るか」に重点は移った。 これは他の産業、例えば繊維、皮革、鉄、化学等の歴史と似た面がある。ある程度普及し供給力があれば売れて利益が上がるものは限られてくる。先発はライセンスやマーケティングで勝負し、生産は後発に任すという図式はグローバルだから可能で、産業に構造変化をもたらす。主題は98年予測だが、このようなことにも触れるセミナーを近く開催、乞うご期待を。(1997年11月)
悪ければ良くなる(1998年2月)
昨年の後半までは回復の動きをみせていた半導体市況はここにきて雲行きは怪しくなってきた。世界的にみても日本の停滞が目立つ。この先どうなるのか、悪くなりそうだが、それがどの程度か誰もわからない。新年度を控えて計画をたてる時期にあることから経営者を悩ませよう。悪いからより慎重というのが一般的だろう。
しかし、悪ければ必ず良くなる。経済しかり会社も人生も国家もだ。だから良くなる。と言い切れないのがむずかしいところだが、私は今が夜明け前。ちょうど暗闇の中と思っている。その第一の理由は循環要素で今は最悪で必ず反転し回復する。それからメモリのように限界に近いほど落込み、今後はある程度の回復が必然的と思われる分野があるからだ。
循環や周期以上に気にしているのは、その流れのなかで転換期とか転換点が見当たらないかということ。大きな流れの変化、風向きの変化あるいは勢いの違いなどだ。真っ暗やみで深刻なニュースが目立つ昨今では明るくなったとしても活気のある春めいた時期は遠そうな感じがする。傾向の変化、あるいは転換点がなく、そのまま周期要因のみのではもう一つ。どうしたら風向きを変えられるか、大きな変化を出し方向を変えるか、大きな課題だ。一つの要素は将来を楽観的に見て、明るく取り組んでいくことではないかと思う。すぐに春は来る。そのように信じている。(1998年2月)
10年周期説(1999年11月)
半導体では90年代は米国全盛、その前の80年代は日本、その前の70年代は米国だった。コンピュータでの市場支配は、IBM、DEC、それからインテルとこれもほぼ10年周期とか。パソコンの成長が鈍り(金額のみだが)、新たな市場成長の牽引役が模索されている今、10年周期説は注目したい。
半導体では10年前の今ごろは日本のピーク期で、今は米国がピーク。現在の日本が沈んでいるのも10年周期の繰り返しなら説得力がある。問題は、その先で、何がどのようにしていつ主導権を握るのか。日本もいつまでも沈滞は許されない。
世の中の全ての動きに周期性があり、それが10年の大きな波動を描くというのは、理解できそうな感じがする。もっとも広辞苑によれば「一昔」は普通は10年前だが、もとは17年、21年、33年前を意味したこともあったとされる。そうだとしても日本の半導体の復活は、10年周期で実現することを望む。(1999年11月)
不況下にも希望あり(2001年11月)
半導体の大不況は、過去の例をみればあるとき突然に回復する。今回と並ぶ激しい落ち込みだった75年は、生産が20%以上減少したが、翌年は6割以上の伸び。降って湧いたインベーダーゲームやCBトランシーバーブームが過激な品不足を招いた。 不況で皆が縮こまり街が荒んできたころに不思議に半導体を使った新たな商品が登場し、それで救われる。もう少しみないと判断は難しいが、あっという間に世界最安値になったADSLなど似た傾向がある。不況で時間に余裕が出来た人々が通常なら生まれそうもない商品を開発したりする可能性も高い。 ゲーム、iモード携帯電話、カラオケ、更には家庭用ビデオ、FAX等日本はインパクトをもたらす商品開発力は世界的に定評がある。中国のように安く大量に作ることも必要だろうが、新たな商品や市場開発はより大事。さあ、今回は何が生まれるか。NECのデバイスはかつてマイコン・キットを発売、それが後のパソコンの大ヒットにつながった。キットが生まれたときも不況だった。(2001年11月)
大調整の意味するもの(2001年8月)
今回の半導体産業の調整は過去最大の85年の落ち込みを上回る記録的な規模。84年はパソコンブームに沸き、84年の秋口でも、その直後に大きな調整が起こるという見方は少数派だった。今回はITブームが牽引、昨年の秋口でも不安はあったが、まさかこれほどの惨状なるという見方は84年と同様に少なかったと思う。予測の難しさの一方で、大きな調整は、人智を超えた巨大なエネルギーの挑戦の産物であり、この荒波を超えて次の世界に進まねばならない宿命と考える。パソコンは、何回か調整局面があったが、その後の10数年で巨大な市場になった。ITも同じ道を歩む可能性が高い。大きな振幅は、決して望ましいものではないが、先に約束された大きな市場に到達するための試練と受け止め、決して希望を失うことなく、嵐に耐えて、乗り切る他はないだろう。苦痛、困難の先には必ず実りありと信じたい。(2001年8月)
覚悟するしかない(2002年3月)
半導体市場の変化の速さやその度合いの大きさは、良く知られたことだが、時には想像を絶する場合もある。このところの現象や増える一方の暗い話題は、過去の深刻な場面を思い起こさせる。80年代中期のメモリ市場崩壊、90年始めのバブル経済崩壊の時は身震いしたような思いがある。今回が、それと同じかどうか判断できないが、用心するに超したことはない。どしゃ降りや大洪水のような天変地異のように避けられないものはあるが、影響は最低限にする。災いから脱出し、自ら先を切り開き、見渡せることを行う。回りが駄目、運が悪いのではなく、身丈にあった出来ることを着実に行う。いくら身震いしても、回りの動きをみても半導体のような変化の激しい分野では、覚悟を決めて自力成長の強固な意志が不可欠のように思える。これまでは不況になれば、ひたすら回復を待ち、やがては救われたが、これからは、違う感じがする。さらば全体、われ志す道を行かん。これが、求められているような気がする。(2002年3月)
潮目が変わる(2002年11月)
世の中にはへいそく感が漂っているが、このところの半導体の動きはなんともダイナミックだ。W杯後の消費一服を警戒し、慎重にみていたが、第3四半期の結果は、大方の予想を上回った。正確にいえば、欧米は停滞傾向だが日本とアジア市場が活況だ。中国、韓国で大きな動きがみられ、それが日本にも波及。日本の市場も回復は着実に進んでいる。問題は持続するかどうかだが、同時に潮目(しおめ)が変化していることも考慮しなければならないだろう。前のピークの2000は、ITブーム、欧米市場の主導の傾向が強かったが、この次のブームはアジア主導、中国の旺盛な消費やデジタル家電の新市場が牽引する可能性が高い。この見方が正しければ、半導体需要の回復は、思ったより早い。アジアおよび日本市場が先行、欧米市場が追随する。今でも数量での増加が大きいことから停滞しているパソコンや携帯電話が動き出せば、品不足も表面化、これが次のピークにつながろう。今は苦しいが、変化は早い。(2002年11月)
ベテランと若手(2002年3月)
半導体は好不況の波が顕著で、特有の動きはシリコンサイクルと呼ばれている。今回の落ち込みは最大級で、回復の兆しが出てきたことから私個人ではこれで7回を経験したことになる。業界のベテランは70年代はじめの落ち込みを含めて8回あるいはもう少し回数が増えるかもしれない。落ち込みはいつも厳しく必死にこらえるが、不思議にその後の好況で忘れそうになるのは、至らぬところ。一時はサイクル消滅論や減衰論も聞かれたが、とんでもなかった。何故か。研究を重ねる所存だが、変動はとてつもないエネルギーのなせる業で、皆が考えねばならない課題だ。他の産業では、時間の経過と共に習熟効果が得られるようだが、半導体は「変動体」であり、常に進歩、発展。これが膨大な投資と激烈な技術開発競争を巻き起こす。サイクルを何回も経験しているベテランとコンピュータ・サイエンスといった新領域のわかる若者が協調して働き、伝統的な技術に新技術を融合させることが発展に結びつく。ベテランも若手もどちらも重要で、これがサイクル乗り越えの要のような気がする。(2002年3月)
まだ半分、あと半分(2004年10月)
暗いわけではないが、どうも世の中重たい感じ。最近の天候と同じで、半導体市況も、もうひとつはっきりみえない。例年だったら10月に入れば来年に向けて良いか悪いか別としても、市況をうらなう情報がちらほら出てくる時期。ここは何が起るか、じっと待つ。その時期が今年は永い感じだ。
ボトルにある半分の酒をみて、まだ半分残っていると考えるか、もう半分しかないとペースを落とすか、現在の市況はまさにこの段階にある感じがする。楽観、悲観あるいは強気、弱気どちらも恐らく正しい。しかし、どちらを取るか。わたしは前者をとりたい。
この業界の人々はどちらかといえば、前者の方が多いと思うが、最近は他の分野からみてどうも元気がないという声も聞く。もちろん景気が良くて明るく輝いている例もある。いずれにしても元気を出して、今後を切り開く気概は不可欠。ボトルの半分の酒ではないが市況を決定する半分の要因は業界内部にあるのではないかと思う。(2004年10月)
シリコンサイクルはどうなる?(2005年11月)
2005年の世界の半導体市場は一桁台の伸びだが成長する。となると半導体特有の需給の大きな変動、つまりシリコンサイクルは消えた。少なくともこの業界で頻繁に使うピークという表現は今年に限り妥当ではない。あえてサイクルといえば市場の成長率や関連企業の利益率の変動が目安になろう。
何故、サイクルが消えたか。多くの要因があろうが、一つは中国に代表される新興の国々の経済効果が寄与しているとみられる。半導体の利用先でも、前々回のようなITブームに匹敵する急成長市場は04年にはみられなかった。従ってピークでも半導体の伸びは低く、結果的に反動も軽微だった。
今後も世界経済が、今までのように推移すれば、半導体でのサイクルは減少するのか。これは、むずかしい。この産業が成熟に向かっていることは確かとしても、内に秘めたエネルギーは大きく、簡単に制御できないと思う。サイクルは、望ましいことではないとしても、まだまだ半導体が多くの夢をかなえてくれる間は、副作用を伴う。が、それが成長の源でもある。(2005年11月)
世界同時好況(2007年1月)
日本では冷静沈着な人でも、中国に行くと何やらむらむらしてくると聞いたことがある。うまい表現だと印象に残っている。さらに中国以上に伸びている地域ではどうなるのだろうか。寝る暇も惜しんで?ということになるかもしれない。
正月早々から物騒な事件、悲しい出来事が目立つ日本、その一方で発展を遂げる熱い地域。当然ながら温度差は大きい。これから発展する国からみれば日本は恵まれすぎた大国といわれる。これは事実かもしれないが、日本だけに閉じこもっていては、地球規模で起こっている変化と新たな方向を捉えられないことになる。
視野を広げ、世界の潮流を嗅ぎ取り、仕事や生活にいかすことが求められていると思う。ハイテク関連の仕事は先進国との関連が中心になるが、今年は一歩踏み出し、活動を広げたい。世界同時好況を体感できれば、良いのだが、これはやってみなければわからない。(2007年1月)
世界を視野に(2007年4月)
IMF(国際通貨基金)は、世界経済見通しをこのほど公表し、世界景気が持続しそうなことを示した。それによれば、実質GDPで世界全体では06年の5.4%が07年および08年ともに4.9%と予測。これは、過去15年を振り返っても類のない好景気が続くことを示している。
日本のマスコミは、この発表を今年は日本が16年ぶりに米国の成長率を上回る点に注目したが、同時に世界景気が持続しそうなことにも目をむけるべきであろう。世界全体でみれば今のような好況は第二次大戦後の復興期以来という。
日本の成長が高まるとみられることは、頼もしい限りだが、狭い日本だけをみていては世界の流れから取り残される。とくに世界が一体となりつつある半導体ビジネスでは、常にそれを意識する必要があると思う。IMFのレポート(英文、300ページ超)は、IMFのホームページから入手できる。(2007年4月)
好況、それとも不況?(2007年7月)
かつて敏腕な経済紙の記者と半導体景気について、好況か不況なのか、議論し困惑したことがある。彼の見方は、良いか悪いか、どちらかしか存在せず、はっきり示せというもの。確かにそうだろうが、梅雨時の天気のようにはっきりしないことが現実には存在する。
今回まとめた株式公開企業からみた日本の半導体産業の景況もわかりづらい。極めて好況の場合もあれば、大赤字で、大変な苦労を強いられている例もある。好況も不況も共存しているが、これは、産業の実態をわかりづらくする。
確かなのは、皆が良い、その逆の悪いという単調なかつての護送船団式の動きから個々に違いが出てきたということだろう。これはわが国半導体産業にとって果たして良いことなのか、どうなのか。議論は分かれるところとしても、世界的な動きと、日本のみの違いが温度差をもたらしていることは間違いない。(2007年7月)
艱難を乗り越えて(2002年2月)
小さいころから日本と海外のかかわりを漠然と考えてきた。それは親が戦時中は中国で生活し、兄弟が中国で生まれたことに影響している面があると思う。既に亡くなった父は昔のことは余り話さなかったが、日本はどうあるべきか、いつも話していた。今の仕事の前には米国の会社に6年強勤めていたが、そのときには米国などで日系人に随分とお世話になった。ここでも「日本」や「日本人論」が自然と話題になり、困難な状況のなかでいかに日系人コミュニティが海外で評価される地位を築き上げたか、教えられたものだ。今の日本の状況は、厳しく、海外の知日派も心配している。半導体も含めて困難を乗り切らねばならないが、歴史や先人のこれまでの動きをみれば、どのような艱難も乗り切らねばならないと思う。比較はむずかしいが、歴史的には現在よりも困難、試練の時期が何回もあったはずだ。 (2002年2月)
「企業と人」
長船さんとのお話(1990年2月)
今回から、新しい企画として『人』を採り上げ、最初は日本電気で活躍された長船さんに登場いただいた。私自身長船さんには 同氏が第一線で活躍され、また米国法人の代表として、向うに住んでおられるときも含めて数え切れない程にお会いしその都度貴重なお話をうかがった。その当時長船さんはいつも厳しい表情で、真剣にこの産業の将来を語っていたのを覚えている。それは好況のときでも不況期でも変わらなかったので、長船さんとのお話しの後は、いつもがんばらなければいけないと励まされたような気になったものだ。久し振りに今回長船さんにお会いし、話の節々で出てきたのが「ばか正直すぎた」と振り返られ「もっとおもしろくやっても良かったかもしれない」ということも言われている。産業は、どのように行くべきか、先のことは聞きそびれてしまったが、ばか正直が世界の中で日本の半導体産業の地位を首位の座に持ってきてしまったのは事実と思う。(1990年2月)
吉崎さんと霰せんべい理論(1991年2月)
「今月の人」で紹介しているように久しぶりに吉崎さんにお会いした。吉崎さんとの思い出は数々あるが、霞、煎餅の話と、記者会見の話は特に印象に残っている。
今から17〜8年前の、私が駆け出しの新聞記者の頃、吉崎さんは日本がいずれ半導体で世界一になるといわれていた。もちろん当時は、TTL全盛の時代で、米国が日本に比べ圧倒的に優位で、吉崎さんの話は記事にもしなかったし、信じられなかった。そこで何故ということになるが吉崎さんはICを作るのはせんべいや霰を作るのと同じ、日本人の方が細かいことが出来るからだといわれ、半分わかったような感じになったものだ。
もうひとつは、やはり10年以上昔だったと思うが、米国からテキサスインスツルメンツ社のトップが来日した際に、記者会見で随分といじわるな質問が記者団から続出したことだ。あのときは吉崎さんも苦労されたと思う。別に示し合わせた訳ではないが、当時のTI社は半導体の巨人で、日本のマスコミの対応も強い者に歯向かうような雰囲気があった。 (1991年2月)
岡本勝義氏を偲ぶ(1993年12月)
岡本無線電機の創業者で会長を務められていた岡本勝義氏が11月9日心不全のため亡くなった。78 才だった。昭和15年に大阪日本橋で創業、ラジオ時代の真空管から現代の半導体まで、わが国電子部品流通の草分けであり、半世紀以上にわたる歴史を築かれた人であった。90 年には創業50周年式典を開催、「電子部品流通と共に」と題する社史もまとめられ、それは歴史を記した貴重なものとして関係者の間で高く評価されている。
私自身も岡本さんには、駆け出しの記者時代から含め通算20 年間にわたり、お世話になってきた。常に気さくで、事業は堅実なものの先取りの精神に富み早くから欧米、アジアにも出張され、新しい商品や市場に対応されてきた。最近のことで印象に残っているのは、今回の不況の到来を9 1年の中頃には見抜いていた様子で、世間は当時まだ浮かれ大変な不況になるとの見方は少なかった。
半導体総合研究所は91年1月から予測誌「SRL Quarterly Forecast」の発行を決めたが、そのきっかけの一つは岡本さんのアドバイスで、今にして思えば当時の岡本さんの見方は先を見抜いていたことになる。広いチヤンネルを持ち、先を見る商社活動が、そのような見方の背景になっていたと思う。ご冥福をお祈りする。(1993年12月)
伸びる会社の条件(1996年6月)
日本の半導体市場は9 5年までの過去10 年間で年平均5.8%成長した。以外と低く、アジアの伸びている国のGDPの伸びは、日本市場を上回りそう。それはともかく半導体関連企業で、伸びた会社はどのような会社か、調べてみた。半導体メーカーだけでなく、製造装置や材料、半導体商社も含めた。
具体的な社名はあげないが、この間に大きく伸びたのは外国製半導体を扱っている商社や主力は他の産業分野だが半導体に力を入れた会社が目立つ。前者は外国系半導体商社で、後者は材料や製造装置関連企業が多い。しかし、全てが伸びているわけでなく、限られた数の会社である。
ということは、企業形態や扱い製品以外に伸びる要素が含まれていることになる。
それほど定量的な分析ではないが、伸びている会社は、半導体の将来に対して自信をもっているところではないかと思う。それも経営トップから第一線まで認識が共通しているところは強い。
とくに不況期の対応は会社によって異なる。将来に対する自信が現実の厳しさで、揺らぐようでは、成長はおぼつかない。いくら厳しくとも 明るい先を信じている会社がこの10年間で大きく伸びたような気がする。登山と同じような話になってしまった。(1996年6月)
半導体に感謝(1998年3月)
97年後半当たりからこのところ月末前後は物騒だ。大型倒産、経営者の自殺等毎回事件が発生する。そのピークは、この3月末で何とか乗り切れば先は見えてくるとか。政権はなりふり構わず景気刺激策や株価維持をあの手この手で繰り広げる。
3月を乗り切ったところで急によくなるようなことはあるまい。今進行しているのは構造的なものが主体で循環要因は少ない。だとすれば構造を変えない限り新たな成長は望めない。倒産、自殺は困るが、構造変化を認識しなければより増える。日本のかつての栄光、80年代までの発展は昔の話。良い時代は長く続かず悪い時もある。努力すれば再び良い時期に巡り合えるはず。
半導体分野の経験者は世間が悪くても好況だったり、その逆も何回も経験している。いつまでも良いことが続くことはなく、悪ければ良くなる。だから今回の不況でも対抗力は強いと信じたい。この産業での起伏の激しさ、天国と地獄を経験していれば、それほど恐いものはない。この調子で乗り切り新たな発展を得る。皆様もどうか元気を出して沈滞を葬りましょう。(1998年3月)
アナリストと株取引(2000年9月)
今回は本誌としてはじめて日本の半導体企業の時価総額を取り上げた。ようやく株価も回復、株式市場の役割は外部からの資金調達を始め今後は企業内部でも従業員持株会、株式オプション制度による社員参加の業績向上策の展開など一段と高まるのはいうまでもない。
しかし、株取引といえばインサイダー疑惑、損失補填等、内外を問わずいろいろな問題が常につきまとう。素人には手のおえない世界だ。株価の乱高下ではないが、不可解なことも日常茶飯事。われわれ産業を対象としたアナリストと異なり証券アナリストは激務であり、見返りは大きいのだろうが摩耗もはやい。
ということもあってか、株取引は弊社のもの以外はやった試しがない。どこで知ったか一方的に誘いの電話は多いが、よけいに遠ざかる。もちろん、関心がないわけではないが、将来はともかく、やらないだろう。仮に特定企業の株式を持ち、その値上がりを期待し、かつ、情報を提供する立場であれば、中立的な判断や分析はできないと思う。自分がわかっているからやらないという極めて単純な自己規制だ。(2000年9月)
トヨタとドコモ(2001年5月)
トヨタの前3月期の連結経常利益は1兆円に近づく見通し。NTTドコモの当期の営業利益は8千億円弱、当期は9千億円以上を計画している。日本全体は沈滞ムードだが、これらの例をみれば、関係なし。トヨタの例は製造分野での潜在的な競争力を呈示し、ドコモのiモードのような新たなサービスを受け入れる豊かな市場が存在していることを示している。半導体は、昨年まではよかったが、一転して悲観ムード一色。好不況の波が顕著なのがこの分野の特色とはいえ、循環を打破しなければならない。製品を絞り込み競争力を向上したり、成長分野に特化する動きが盛んなことから停滞下降期でも伸びる会社は増えると期待したい。トヨタやドコモ、半導体ではインテル、それからロームなどの成長が全体の伸びを牽引する。個性とかこだわり、単に波に乗るだけでなく、独自の戦略が豊かな結果をもたらす。小泉新政権の発足にみられるように時代は大きく変化しているようだ。厳しい環境だが、半導体も変わる必要あり。(2001年5月)
「うさんくさい」という壁(2008年6月)
産学での連携強化、ベンチャー企業の育成など進められているが、もう一つ盛り上がりに欠ける。その理由の一つに産と学あるいは投資家と新興企業の経営者の間にお互いに「うさんくさい」と思う壁が存在しているという指摘がある。いわれて妙で、これは他の場面でも感じることがある。
純粋な学問や科学的な理論を追及する人々と企業経営、財務的な支援助言をしてくれる立場の方は極端かも知れないが、水と油ほどの違いがあろう。しかし、その違う分野が融合することで新たな市場や事業が生まれる。
どうしたら融合し、お互いに力を合わせることができるのか。米国の例では、机上の空論を振り回したり、資本の論理だけで物事を進めようという場合は、何人ものベテランの仲介者が、間に立ち、壁を乗り越えられるようにするという。うさんくさいと思うことはたまにあるが、相手もうさんくさいと思っていると考えれば、間違いないのかもしれない。(2008年6月)
「半導体商社」
「半導体商社」の発刊(1990年8月)
今年の初めから暇をみつけては書いてきた「半導体商社」と題する本がようやく書店にならぶようになった。筆者は私で、日本経済新聞社の「日経産業シリーズ」の一環として半導体の販売、とくに商社の活動をわかり易く解説した実用書である。
内容については今後の読者の評価に委ねる他ないが、半導体の販売やそれにかかわる商社の活動を総合的にまとめた点では従来なかった本と自負している。
販売活動が企業において、いかに重要か、いうまでもないことだが、この世界は実に奥行きが深い。しかも、それぞれ長い歴史を経てのことだから今後のことを予測することは簡単ではない。歴史は繰り返すのか、それともあらたな一幕をもたらすのか、本書には私なりの見方を盛り込んだつもりだ。夏休みを利用して一読されるようお奨めしたい。 (1990年8月)
総合商社と半導体(1990年5月)
「意思決定プロセス、期間から総合商社が半導体の販売を行うのは無理でしょう」というのは90年2月1日付けで三菱商事の半導体事業部長に就任した牛場輝夫氏。大会社の意思決定のプロセスは中小より複雑なのは当然と思われるがそれを半導体と絡めると、牛場さんが指摘される通りかもしれない。
この言葉を引用したのは、牛場さんは関連会社のダイヤセミコンシステムズで四年間副社長を務め、「猫の目」のように変わる半導体市況とその中で商売を行う方法を身をもって体験した結果の感想だからだ。
この話を聞いて、この産業では「朝令暮改」でなぐ朝令朝改”が長く見られることがわかった。「朝令暮改」「君子は豹変す」はよくある例で、その功罪は別としてこれが行われているから半導体産業は発展する。
裏返して、もう少し落ち着いた展望のあるスタイルは取れないものだろうか考える必要もあろう。という私も計画と実行は、なかなか噛み合わない。私の場合は、何とかなるにしても産業レベルで「朝令暮改」が横行しているようでは実りある発展は難しいのではないかと思う。(1990年5月)
理想的な半導体商社とは(1996年3月)
久しぶりに半導体商社の動きをまとめた。各社の業績は好調で動きも活発なことを反映し、昨年当りからいろいろな問い合わせが増加したことが背景にある。それからたまたま日立系2社の合併も発表された。販売分野では常日頃何かにお世話になることも多く、理想的な商社像とは何か、機会あるごとに意見を交換している。
例えば成長性や収益性さらには規模といった基本的な数字でみれば、半導体を扱っている商社はこのところ優等生であろう。同じエレクトロニクスの 領域では大塚商会(パソコンと事務機)などが規模や成長性で勝っているようだが、パソコン販売は、大きく変化。成長間違いないとしても.販売での勝 者と敗者の区分は、これからだ。もっとも半導体の場合は、輸入製品への 取組みやアジア市場での営業と、国内パソコン商戦よりも難しい要素も少なくない。
理想像とは、ということに戻れば、現在の状態は、ほかの低迷分野からみれば極めて魅力的だろうし、裏返せば新規参入は増える。それだけ市場は 大きく多少の変転はあっても成長を続けることは間違いなかろう。そこに国際化や競争の激化が加わる。この動きを、どうとらえるか、いかに経営に活かしていくか。 変化は必然的で、優等生であることを維持し、かつ成長という大きな挑戦がある。(1996年3月)
「設計」「販売」の一体化(2000年12月)
今年の成果は、と振り返れば幸いなことに少なからずいろいろ行えた。一つは、ソリューション関連を始めたことで、半導体電子商取引のパッケージを用意し、受注を開始した。成果は、これからだが、ネット上で製品情報を自由に検索し、目的の内容をすばやく探し出すことは、電子商取引のみならず、広く有用。例えば弊社の刊行物の内容検索を含めて共通手段として今後は必要不可欠な道具になると思っている。
レポートでは、半導体販売分野を主体とした「転換期の半導体商社」を年央に発行、広く活用いただいている。これからの半導体販売を分析した内容だが、発行後の反響を含め、改めてこの分野が急速に変化していることを痛感した。とくにネットワーク、無線などの特定分野に的を絞った販売活動は、技術志向が高まり、「設計」「販売」が同時かつ一体で進行しているといっても過言でない。
これらは、広くソリューション・ビジネスといわれている。かつては、資源を揃え、それを組み合わせたり加工し、さらに量産し、最終的に需要先に届けた。ネット時代は、時間が一気に短縮され、すべてが同時並行、さらには顧客の細かな要望まで同時に実現してしまう。一体化時代が到来しつつある。今年のご恩に感謝、良いお年、輝く21世紀をめざしましょう。(2000年12月)
「日本の半導体外資」
不況と円高そしてマーケットアクセス(1993年4月)
このところ円高が続き、時を同じくして政治の季節が到来、マーケットアクセスをめぐる議論が喧しい。日本側からみれば、どれも対応に苦慮する要因だが、半導体に当てはめれば、三重の重みとなる。見方を変えれば、産業の変化は急となりそう。
これだけ円が高いと一昔前の通念では、通用しなくなるものが増える。半導体も、日本が誇る生産技術を活かして海外で作ったのが安くなる場合もあろう。国内の空洞化が心配だが、ハイテクの仕事はなくなるまい。急速な変化は無理でも、水が低いところに流れるように変わっていく。
もともと日本の文化が和洋折衷、経済自体も「柔構造」といわれるように変化は早いのではと思う。とくに「不況」と「円高」に加え「マーケットアクセス」という外圧を抱えた半導体産業は、好むと好まざるに拘らず、この動きの先頭に立つ可能性が高い。もう2-3年もしたら、やはり半導体は日本経済の象徴か、といわれる程に新たに発展を切り開く。決して楽観過ぎる見方でないことを確信したい。(1993年4月)
日本の外資系半導体企業(1994年2月)
日本で活躍中の外資系半導体企業回りをこのところ続けている。出来るかぎりたくさんの会社を訪問し、市場での成果や、その逆の苦戦ぶりを教えてもらうことが目的。企業数が多く、製品も複雑な物が増えていることから、全体の動向を捉え、かつ個々の企業の特色をつかむのは容易ではない。
株式の公開が間近で、情報公開に制限がある会社、あるいは担当者が多忙を極めなかなか時間を取れない例も少なくないのは、 このところの海外市場の活況ぶりを反映したものだろう。避けて通ることが出来ないのがマーケットアクセスで、その概念は定着したといえ、個々の企業の活動との結びつけはもちろん多様なものがありそう。
かつての ICの輸入自由化、資本自由化さらに関税撤廃そしてマーケットアクセスと、この分野が政治と縁がなかった期間は限られる。しかし、政治の与える影響は限られ、最終的には個々の企業努力次第なのはいうまでもなかろう。そのような視点で 日本での外資系企業と製品に焦点をあてたレポートを近く発行する。乞うご期待を。(1994年2月)
日本の半導体外資(1995年9月)
この2か月間、わが国で活動している外国系半導体企業を訪問し、いろいろ意見を交換させてもらった。一年当り最低一回訪問することにして、既に今回が三回目になる。毎度のことだが、なかなか連絡がとれず、訪問には苦労する場合が少なくない。とくに最近は 香港やシンガポールに出張している例が目立つのは、このところの日本の電子機器生産が、アジアに移転しているのを反映したものだろう。必要とあらば、どこの地域にも 出かけなければ、商売にならない時代か。
訪問することで貴重な話しが聞けることが、なにものにも変えがたい。今まで低迷していた売上がグンと伸び、活気が戻った会社。雌伏期もあれば絶好期もある。日本で活動していたことからヒット製品を産み出した会社。どちらかといえば外国系にとっては、日本を通過してアジア諸国に力が入る環境にあって、日本での活動が全体でも大きな成果にむすびつくような例を聞けば、こちらも励まされる。
ここでも何回か書いたが、外国製品が活用され、かつ国産製品も海外に輸出されている半導体市場は健全だ。双方向であり、国際的に優れたものが、最終的には大きなシェアを確保する。 もちろんここでいう競争力は、単に性能だけでなく諸々の要素を含んでの競争力だ。市場の変化も早く外資に限らないが常にベストを尽くすことが求められている。近く関連のレポートを 発行の予定。乞うご期待を。(1995年9月)
政府間から民間主導へ(1996年8月)
7月末は31日で終わらず32日か、33日になるかも知れないといわれていたが、まさしくそれを地でいく形で日米間の半導体貿易交渉は決着した。両国首脳の合意で保険と半導体は7月末までには解決ということになっていたことから時間を延長して 交渉が進められ、半導体に関しては 従来の政府間協定から民間べースの多国間会合に主体が移行することになった。
交渉が時間切れになり当事者は時計を止めて徹夜で協議というのが外交上では少なくないとみられるが、ときはアトランタオリンピックと重なり、日本のマスコミはオリンピックか半導体か、交互に伝え、落ち着かない日が続いた。
半導体協議に対する米国でのマスコミの扱いは、極めて少なく、日本のそれとは対照的。米国の関係者は協定は延長されたと認識している向きが多いことから、日本側、米国側それぞれ自分に都合が良いようにとらえていると思われる。だからこそ難航しても合意に至ったといえる。
新たな合意のもと、今後は対立から協調と業界トップが話しているが、今回の協議でもいかに双方が理解を深めねばならないか、そのためには、さらに交流が重要であることが示されたような気がする。共に立場は違い、文化、習慣、生活スタイルも異なる。しかし、いろいろな場面で交流を深め、その障害をできる限り取り除くことが必要。例えば過去10年で外国製が何故これほどまでに増えたのか、本当に疑問に思っている外国人は 少なくない。(1996年8月)
「半導体外資50社」の発行(1996年2月)
昨年始めから準備してきた「半導体外資50社」のレポートが完成した。当初は遅くとも秋口には発行と計画したのが、遅れてしまった。遅れた理由はいろいろあるが、最も大きな理由は、外資が日本でどうなるのか、その分析に時間がかかり過ぎた。結論は「力を付けた在日外資」となったが、それがある程度明確になってきたのは、95年も押し迫ったころだ。
思えば昨年は激動の一年。円高に振り回され、社会不安に揺れた。言い訳になるが、このような状態で先行きを分析するのは極めて難しい。というか、円相場一つとっても予測は不可能であり、当たるとしたら、それはたまたま運がよかったということであろう。外資に戻れば、昨年の第3四半期のシェアは驚くほどの急増、大きな変化が発生している。
近く発表される第4四半期シェアも高水準なのは間違いないと確信している。シェアの増加はこれまでも着実な上昇がみられたが、昨年の超円高それからパソコン、携帯電話に代表される国内生産機器の変化は、外国系半導体需要の増加に火を付けたようだ。かつては使わねばならないという圧力で伸びた面もある外国系半導体だが、これからは、使うことが成長への道に変わろう。これは決してほめ殺しでなく、競争力と市場の変化だと思う。(1996年2月)
役割の増大と人手不足(1997年5月)
伸びている分野はどこでも人手不足だが、日本で活躍している外国系半導体メーカーも例外でない。売上は伸びているが、人の数はほとんど増えていない会社が目立つ。理由は、いろいろあるようだが、共通しているのは、会社側が望んでいるタイプの人材がなかなかみつからないということがあるようだ。即戦力として希望しているのは「語学力」や「最新技術」の理解、さらにはグローバル時代にあって国境を意識せずに相手を理解し、また、相手を動かすことが出来る人。即戦力にならない新卒でも、いざ決定の段階で外資企業ということで親が反対して、希望する人が取れない場合も目立つとか。語学力、技術に対する理解、海外カルチャーへの対応など、いずれも備えた人は限られよう。ましてや日米の企業で就業経験がある程度あり、どちらの文化にも対応できるとなると、さらに限られる。しかし、半導体外資は、採用に極めて慎重になっているようで、この分野の人手不足はより深刻なものになろう。 半導体が複雑になり、従来のように右から左には売れなくなっている。システムの一部であり、場合によっては相手先の盛衰を左右するような商談が増えていることが背景にある。採用に慎重なのは、従来にも増して信用や役割の増大、信頼感が求められ、外資がそれに答えようとしていると思いたい。納期、品質、価格いずれも順調なら問題ないが、時には大きな圧力も。それを乗り越えるのも不信をつのらせるのも最後はかかわる人で決まってしまうからだ。(1997年5月)
半導体外資50社(1998年4月)
ほぼ1年前から準備してきた「日本の半導体外資50社」レポートがようやく完成した。本来は半導体協定が失効して1年後の97年7月頃の発行計画だったのが、遅れた。言い訳になるが、調査に手間取ったのと、外資各社の日本での売上の見通しがもう一つ鮮明でなかったことが原因。とくに韓国や台湾メモリメーカーの売上がどうなるか、市況の変化、時間を待たねばならない点が少なくなかった。
発行を終えての印象は、外資企業は97年もシェアを増やしたとみられ、また98年の展望も悪くないことである。副題は「シェア3割台の攻防戦」とし、今後はある水準のシェアの範囲で日本と外資系の競争は激化すると見込んでいる。円安やメモリ分野での競争激化は、外資企業には向かい風である。
シェアを奪われた日系メーカーも、いつまでもだまってはいられない。反撃を強化しよう。シェアの変動はシステムLSI、それからゲートアレイなどのASIC分野、デジタル化の進展で需要が伸びているミックスドシグナルなどが代表分野になろう。協定が開始された86年から10年を経て外資系のシェアは4倍に増えたが、今後の10年はどうなるだろうか。創造力を発揮し、先をみた挑戦者に勝利の女神が味方しよう。(1998年4月)
巨大なパワー(2001年12月)
この1年はなんと波乱に富んだ年であったろうか。いろいろあり過ぎて簡単にはまとめられない。史上初とか記録づくめ。それも少し落ちついた来年始めの方が結果は、より明確に出て、改めて大変な年と思われるのではないだろうか。 夏以降は主に外国系半導体企業の動向を研究した。新製品、新技術、無数の合併、新興企業それから売上の急増など感じたのは巨大なパワーの存在。DSL、無線LAN、ブルートゥース、ストレージ・ネットワークなどの新製品が続々と生まれ、DSLのようにこの1年で国内だけでも100万件突破といった早さで市場に吸い込まれる。このパワーはより加速され、新市場を形成、それも短時間かつ変化を伴いながら動く。全体では巨大なパワーだが、個々には対応に限界があり、それが半導体産業に合併や新興企業の誕生をもたらす。核融合とか核分裂を連想させる。御することは出来ないが、やり方次第で大きな成功をもたらす。市場全体は最悪の1年だったが、発展は間違いなし。(2001年12月)
日本の半導体外資(2004年12月)
今年の後半は、日本での外国系半導体企業の調査に多くの時間を割り当ててきた。この種のレポートは既に何回か発行、従って作業は主に既存情報の更新となる。ねらいは携帯電話、自動車など含め、果たして外資からみて、日本の市場への取り組みの状況と成果の度合い。
今回の調査では、初の試みとして100を超える対象会社にアンケートへの回答を依頼し、その結果を集約することはもちろん個々のデータはネット上で公開し、半導体ユーザーなどが、積極的に利用する仕組みを考えている。欧米提携先には、日本市場にこれから参入しようという会社の収録を依頼。うまくすれば、新鮮な情報を提供できそう。
このようなことが出来るようになったのは、ネットの利用が広く理解されつつあることや情報集積、更新が容易になってきたことがあると思う。課題は、ネット情報の提供は、知名度は高まっても、それ単独では収益の確保が難しいこと。そうだとしても、まず、実行そして考える。やってみなければわからない。関係各位のご協力ご支援を改めてお願いします。(2004年12月)
ウィンブルドン化する国内市場(2005年3月)
日本での半導体外資のシェアは向上。その数字は計算の仕方によって4割弱とも5割近くとも示される。どちらを採るか、これは立場によって異なる。半導体協定下では、実に多くの議論を呼んだ。今は時代が変り、どちらを採るか、自由であり、乱暴を覚悟でいえば、どちらも正しいと思う。
協定時代の後半に外資のシェアは一段と上昇。世界中からあらゆる会社が参入し腕を振るうのだから当然とため息をついたある日系企業の言葉を思い出す。ウィンブルドン化だ。半導体に限らず多くの産業、スポーツ、芸能、サービスでみられる。競争は激化するが、旧態から脱皮し、世界水準に移行する利点がある。
今は外資優勢の流れにあるが、同じことは続かない。戻しがあり揺らぎがある。柔道、相撲、サッカー、野球でもウィンブルドン化が避けられないように競争から進歩を得る。半導体の国内市場で活動する会社は、さらに上をめざす挑戦が求められる。これが発展をもたらすのだ。(2005年3月)
理想と現実(2005年4月)
あなたが半導体を買う立場として果たして理想的なサプライヤーとは? 何人かと話し合った。議論を待たないのは「品質/信頼性」は日本基準。価格は「中国」ないしは「台湾」。それから先は意見が分かれた。
最新のチップは膨大なソフトが不可欠で、それは米国や欧州の先端技術が不可欠。いいえ、どのように複雑なチップでも期日どおりに供給してくれる韓国の頑固なまでの根性は他に代えがたい。供給の保障や信頼性なら日本企業に勝るものはない。
これらの議論から結論は、簡単にはまとまらない。お国柄や歴史、文化さらには固有の価値観があり、理想は良いところをうまく混ぜ合わせたものだろう。しかし、現実は異なる。世の中に普遍的なものなど存在しないように理想と現実は常に同居している。それで良いのかもしれない。(2005年4月)
「半導体ユーザー」
地域の特色を活かした購買活動(1989年10月)
このところ半導体のユーザーを訪問する機会が増え、半導体を購入する人々のいろいろな意見を聞くことが出来た。輸出比率の高い企業では、購買も国際的な視点から行う方向を強めており、もっとも適した地域で買うような活動に力を入れているという。
印象に残ったのは、有力なユーザーは地理的に区分し明確な展望をもっていることで、将来の購買は廉価品、普及品は東南アジア地区、ソフトウェア絡みの半導体は米国、日本では高度な加工を行った先端型量産品、また欧州では独自の通信、自動車用半導体といった構図が考えられるとか。
なかでも、安値の汎用品では、韓国、台湾に代表される東南アジア諸国への期待は少なくない。半導体購買が将来は、このような方向になっていくのか注目したい。(1989年10月)
日本の半導体ユーザー(1994年8月)
「猛暑」とか「酷暑」さらには「極暑」といったどのような表現でも当てはまりそうな日々が続いている。一年前のこの欄では夏はなかったと書いたが、今年はその反動か。両方を足して 割ればちょうど良い感じだが、自然はそれほど甘くない。
この暑さのなかで、このところ手分けして半導体ユーザーを訪問している。7 月末から始め9月中旬までには最低でも50件から60件、出来れば100 件近くを訪問の予定。目的は海外生産の進展と、現地調達に関し、これからどのように変化するのか、いろいろな意見を伺い、また交換することにある。
今までも半導体ユーザーを訪問する機会は少なくなかったが、今回のような短期間での集中訪問は初めての経験。本誌でも触れてきたが、半導体の需要が海外生産の進展や現地調達の拡大に伴って、これからどのように変化するか、出来る限りいろいろな意見を集め、今後の需要予測に役立つモデルを創りたいと思っている。まだ、限られた範囲だが、来年以降大きな変化を与えそうな話も聞いている。暑さは厳しいが、そこは発想を変えて、だからこそいろいろな情報に接する可能性が高まることを信じたい。とはいっても、これからはせめて平年並の温度を期待したいところ。読者の皆様も暑さに負けぬようご自愛を。(1994年8月)
購買から調達へ(1996年5月)
このところ半導体などの資材の購入を「購買」から「調達」に切り替える日本のユーザーが増えているという。人によって解釈は違うが前者は受け身の購買、後者は、開放的、積極的な調達ということらしい。 マーケットアクセスが 始まったころ外国人にはよく日本の歴史、とくに「士農工商」を引っ張り出して買う側は「士」、売る側は「商」 であ り「士」は「商」よりも上だったなど、ぶったものだが、状況は変わってきているようだ。
調達戦略はいろいろあるが、最も一般的なのが、必要な量や時期を公開して広く供給者にその内容を伝え、最もふさわしいところをみつけること。これに対して典型的な購買は、情報を小出しにして、決定は訪問頻度、親密 さ、従属度といった要素から判断される。後者は日本的、前者は西洋型で、一概にはいえないが、長所短所売る側、買う側それぞれ双方にある。
士農工商型の購買がいつまでも続くとは思えないが、一方でこのような日本型購買がすぐに変わるとは思えない。それぞれ良いところを生かして、弱点を補うのが一番だろうが、購買とか調達が、注目されるようになったのは、時代の流れだろう。それにしても、購買とか調達といった部門は、会社や工場で最も不便と思われる場所に位置して、ろくな応接もなし、さらに担当者はつかまりにくいという例が多くみられるのは、どうしてだろうか。(1996年5月)
お客様は神様それとも王様(2005年7月)
良くいわれることだが、お客様は神様。これが西洋では王様。同じようなものだが、実は異なる。半導体の場合は、お客様は、王様の感じの方が実態に近いのではないか。違う表現では、顧客志向、ユーザーの要望に応じることが強調されるが、その度合いは、時と場合による。
例えばデジタル家電のような変化の激しい分野で、最大の課題、問題は生産数量と期限。ユーザーは果たして的確にそれを予測できるのか、これはやってみなければわからない。売れないと思ったものが売れ、その逆もままある。そのたびに半導体メーカーは翻弄される。ゲーム、パチンコはなおさら。
究極的には、半導体メーカーは、お客以上に考え、その注文の変動に備えることができれば理想的。かつてヒットした小型ゲームのLSIを受注した台湾企業は、注文より自ら多く量産、そこに急ぎの追加注文が来て、ユーザーは随分と助かった。しかし、時間の経過とともにヒットしたゲームと似たようなゲームが市場で増えたという。(2005年7月)
メーカーとユーザー(2007年2月)
「汎用ソフトやハードでは日本は強くないが、システム構築では世界をリードする分野も多い。金融、自動車、鉄鋼、化学など世界でもトップ級のユーザーに鍛えられた結果だ」とこの分野の友人がいう。同じことは電子部品メーカーも良く口にする。優れたセットは最高の電子部品でつくられると。
半導体の場合もこれは同じ。日系半導体メーカーのシェアは落ちたが、ユーザーは家電、事務機、車、工作機械など世界をリードしている。車の場合は、世界最も厳しいという日本のユーザーの要求を満たしていることが、強さの原因の一つだろう。半導体も同じだろうか。
かつてはそうだったかもしれないが、グローバル化は、国境をなくし、連鎖は世界規模で完結するようになってきている。弱い分野は他国の資源で補い、強い部分をより伸ばす。この傾向は強まりそうだが、半導体では「ユーザー一流、メーカー二流」などといわれないようにしたい。(2007年2月)
「IT,ネット」
情報の部品化と組み合わせ技術(1991年6月)
優れたシステムは優れた部品によって作られ、また優れたシステムを作ろうと努力することが、優秀な部品を生み出す。この考え方を当研究所の活動に当てはめると優れた部品を揃えることは不可欠といえる。扱っているのは情報のみだから情報を部品化しなければならないし、それをうまく組み合わせて、質の高い分析や予測も用意する必要がある。
このような個々の情報を部品のようにして理論を構築したり、検証する方法が法律事務所や特許事務所でも行われる例が増えているという。特に最近の32ビット・パソコンとウインドウズ機能の組み合わせは、情報という部品を組み合わせ理論を作るにも、その逆に大きなシステムを考えて、それに必要な部品をそろえていく両方の方法に有用だ。
課題は、個々の情報部品の品質を高めることと、陳腐化しないように常に性能向上を図らねばならないことで、さらに組み合わせ技術も問題解決型であり、提案型でなければ役に立たないであろう。最近のソフトやOA機器の進歩は、強力な援軍であり、研究調査活動にもいろいろな衝撃を与えている。まだ、十分ではないかもしれないが、最終的には利用者にいかに利益をもたらすかが鍵であり、努力を続けたい。(1991年6月)
改革は草の根から(1997年4月)
海外から日本にやってきた人々がまず気がつくのは、ぴかぴかの車が道路を埋め、日本人の服装もきれいなこととよくいわれる。裏返せば、海外は新車のような車もあれば、屋根に穴のあるようなポンコツが走っていて不思議ではない。服装もまちまちだ。だから日本が停滞気味とは外観からではわからない。
しかし、車や服装だけでなく、似たようなことは他にもある。東京を拠点にインターネット・サービスで成功しつつある日系米国人は、最初は中古のミニコンやパソコンを使って仕事を始めた。彼等の米国の仲間も同じで、それで十分とか。インターネットは草の根ネットで、一人一人が小さいものから作る、商売でも15万円もあればスタート出来るという。マイクロソフトにバグが出たら世界がおかしくなるかもしれないが、そんな心配もないと。
インターネットに限らず、パソコンでも草の根を大事にしたい。この業界に身を置いているからには、自分達でネットワークやデータベースを築き、それを役立てることを奨めたい。確かに専門家でなければわからない点は少なくないが、情報技術(IT)革命は着実に進んでいる。とくに将来を担う世代は、専攻を問わずITに草の根で挑戦してほしい。いくら立派なものを会社や専門家が用意しても、草の根の経験が反映されていなければ、もったいない。それよりも創造や革命も生まれて来ないような気がする。(1997年4月)
時代のキーワード(1998年9月)
「軽薄短小」、「QCDS」といった話題を久しぶりに取り上げた。時代を象徴するようなキーワードは常に存在するし、出来れば先取りもしたい。例えば、2−3年先はどうなっているのか、身近な例で考えてみるのも楽しい。21世紀の始めにはわれわれのような仕事は、ネットワークやインターネットの進歩で、場所の制約から相当逃れることが出来そう。自宅、出張先などどこにいても必要な情報は手に入るだろう。また、本誌も電子的に配布出来よう。それでも広告の制約がある新聞や週刊誌がインターネットに全て移行するとは思われないから週に何日か事務所に顔を出す必要もあろう。商談、そして物流、その後の勘定、これを「商流」「物流」「金流」というそうだが、電子化や合理化は相当進む。生活の視点から捉えれば、場所の制約が減少し、うまくすれば「時間」や「余暇」 を楽しめそう。全部の実現は無理かも知れないが、多くは実現しよう。時代の変化をいかし先取りしたい。 (1998年9月)
半導体流通とIT革命(1999年10月)
インターネットに代表される情報技術(IT)の利用が多方面で進んでいる。弊社のような調査研究業務では、例えば決算書の入手など従来は手間がかかった仕事も現在はネットで即座に利用できるようになった。ここ1年あるいは1年半ほどの変化は急で、この先の進歩はいろいろな夢をかなえてくれそう。
半導体の流通分野でも、ITを利用した取引が目立ってきた。関連した内外ホームページは既に数え切れないほど見受けられ、中には「アメリカンICエクスチェンジ(http://www.aice.com)」のように商業化のメドが立ってきたものもあるようだ。ITの利用は、在庫の有無や納期、価格帯といった情報の容易な入手や交換による取引の活性化や増大をもたらす。
同時にITの利用で忘れてならないのが、複雑なものをより平易、一般化させて誰でも取り組めるようにすること。 手前味噌で恐縮だが、弊社が扱っている米データ製"/PA/L/Xpert"は、CD2枚に約123万点の半導体製品情報を収納して製品別、メーカー別、互換品/同等品などの情報をパソコンで即座にみられるようにした。その結果か、半導体ユーザー、とくにアジア圏ですこぶる好調だ。(1999年10月)
日本型IT活用法(2000年4月)
TSMCに代表される台湾の半導体製造受託業、それから米国ソレクトロンに代表される電子機器製造受託業の好業績が目立っている。前者は新工場に2,500億円と年商とほぼ同額の投資。後者は今年度は1兆円の売上に達する見通し。好調の要因は、IT(情報技術)を活かして納期短縮、在庫削減、早期市場投入、生産性・品質の向上を図り、それが見事に時代の要請に合致したこと。
モノ作りがお家芸だった日本は、これらの新型受託業に市場を取られている。簡単にいえばIT活用が遅れ、現在のデジタル革命時代の周期に乗り遅れた。といえば簡単だが、先に上げた成長企業の得意先は工場を持たない新興半導体会社だったり、シスコシステムズ等高成長のネット機器会社が中心で、新たな産業構造形成の潮流をもたらしている。
日本が追いつくには時間がかかる。同じやり方では勝ち目がない。しかし、日本でも世界に誇るコンビニはあるし、代表的日本食のおにぎりは機械化や包装技術の進歩で1日当り信じられない数が売られている。コンビニはIT活用の際たる存在。乗り遅れたが、やり方次第では、いくらでも先発に負けない新たな価値をもたらせるはず。(2000年4月)
変化の予感(2000年5月)
先のNHKのTV番組で作家の村上龍氏による「失われた10年≠問う」は、印象に残った。同氏が編集長を務めるインターネット上の雑誌で、何万人もの読者に向けて質問し、繰り返しながら思索を展開する。独断と偏見は承知の上で、何が結論だったかといえば、これから世の中がどうなるとか、いかにあるべきか、もういわないほうが良い。ということだったと思う。これからは、各人が考えて自ら責任を持ち、未来を切り開くことが求められるとも。
内容以上にインターネットを駆使した手法に注目したい。質問には各界要人からの返答も含まれ、それをさらに掘り下げた議論も行われた。著名な村上氏のネットワークだからこそ このような意見交換が可能だろうが、この手法は、他にも適用されよう。既存の媒体ではなかなか出来ないことだ。
皆が同じ考えをしたり、同じ行動をとる。だからバブルが発生したのかもしれないが、これからは変わる。ネット利用は際たるもの。大量も可能なら個別にも適合できる。さらに細分化も出来る。ネット時代がもう少し早く到来したらバブルは防げたか。番組は、そこまで触れなかった。(2000年5月)
発明の功罪(2008年3月)
産業革命を起こした英国が19世紀の初めに世界の技術、工業をリード、19世紀後半は米国で多くの発明、革新がみられた。米国企業はミシン、タイプライター、マッチ、冷蔵肉といった商品の生産、貿易で世界をリードした。
20世紀の後半は生産技術、品質でリードした日本の時代が到来、米国は大量生産分野でシェアを失ったが、やがてインターネットやIT技術で再び世界をリードする位置に返り咲いた。エレクトロニクス、半導体ではEMS(電子機器生産サービス)やファウンドリといった新事業モデルを活用している。
今回のサブプライム問題は、巧妙、複雑な金融派生商品によってその影響と被害が拡大、米国のみならず世界的に波紋を広げている。時代は常に新たな発明、革新を伴うが、時にはその副作用として悪いものも産み出す。出来れば避けたいところだが、それでは進歩は止まってしまう。(2008年3月)
駄洒落も必要(2008年5月)
朝はTVをみないで、もっぱらラジオと決めている。大塚商会の「たのめーる」のCMはオヤジ風駄洒落の連発で、泥臭く印象に残る。事務用品を気軽に届けますというサービスで、競争が厳しいオフィス用品通販だ。と思っていたらねらいは、通販だけでなく、販売システム(ASP)そのものの提供で数百社がサービスを利用しているという。
同社の業績も好調で、07年12月期売上4,694億円、経常利益率6.5%、株価も堅調。主力は複写機およびパソコン販売だが、それらを組み合わせたシステムインテグレーションやサービスが収益に貢献している。用品ASPの次は総務、人事、経理などの業務をIT技術で代行する「たよれーる」とか。
分野が異なるが、半導体でもいろいろな工夫、仕掛けで新たな価値、魅力づくりが必要と思う。一つのヒントは、駄洒落であったとしても平易で、市場に受け入れられやすいこと。頭を柔らかくして、明るい未来を開きましょう。(2008年5月)
ネット情報とデータベース(2008年12月)
今年の成果といえるかどうかわからないが、インターネットによる情報入手が大きな比率を占めるようになったことだと感じている。これまでは、新聞、雑誌などが主体で、とくに新聞は、主要紙を毎日欠かさずみて関連した記事はスクラップ、その数は膨大なものになっている。
情報収集でネットの比率が増えたのは、例えば企業が株主向け情報などを広く公開、既存の印刷媒体では限られた情報量が飛躍的に増大した結果もあろう。情報が増えることはわれわれの仕事にはありがたいことで、かつそれがネットで容易に入手できることは、すばらしいことだ。
ネット利用の増大はデータベースに影響を与える。従来に比べ何倍もの情報量を使え、比較や参照も楽。ただし、20年、30年の時系列情報はネットそのものの歴史が浅く、限界がある。従って既存のデータベースにネットによる最新データ追加している。(2008年12月)
「政治、社会」
在任期間戦後3位、小泉首相(2006年4月)
4月末で小泉純一郎首相の在任期間が戦後3位、故佐藤栄作、故吉田茂元首相に次ぐ記録になった。小泉さんが長期にわたってその職を務めた要因は何か。いろいろ指摘されているが、私は日本が苦境に立ち、自ら変化し、改革を成し遂げなければならなかったという時代の変化に応じた政治が支持された結果と思っている。
自民党をぶっ壊す。明確な目標を決め、何が何でもやり遂げる。永田町の常識にとらわれない変人。だから出来た。しかし、政治だけでなく、これは他でも同じ。日本の半導体業界、企業、経営トップどれだけ変化に応じたか。相変わらず昔のやり方。時代の変化に応じきれない例が目立つ。
右肩上がりの時代と、その反対の時代ではやり方は全く異なる。とくに苦境からの脱却、新たな成長路線の確立は最も骨が折れる。当たり前のことだが、これがあるから進歩する。変化にうまく応じられない組織や国はやがて衰退、消滅ということを歴史は教えてくれる。(2006年4月)
改革の推進に期待(2006年10月)
安倍総理は、わが国では初の戦後生まれの総理。また、52歳という年齢はポスト団塊世代に属す。小泉内閣が推進した改革路線を踏襲するが、その年齢、世代から日本の新たな成長をめざし、変わる、変えることが期待されている。
変わることが求められているのは国だけでなく、半導体産業に携わっている多くの人々が感じていると思う。しかし、言うは易く行なうは難し。変わるには、それに先立つ準備と今後の姿が見えなければ、動きづらい。
準備はいろいろあろうが、新たな事業などでは5年ほど前から種まきし、育てる必要があるという。見方を変えれば、常に先を意識した先行投資は不可欠。それがなければ、やがては空白の何年間かが待ち受ける。幸いにして安倍総理は改革を進めた小泉内閣時代の経験、さらに若さという力がある。期待するとともにわれわれの業界も改革を進めねばならないと思う。(2006年10月)
透明度が大事(2007年5月)
特待制度をめぐる高野連の対応の拙劣さが非難され、制度の見直しが行なわれる。取り決めと実際の運用の違いは、誰でもわかっていることで、昔だったら仲間内の問題で済んだことだろう。談合の告発、天下り制度の見直し、インサイダー取引での逮捕など今の動きは、新たな時代への対応にみえる。
成長の時代から成熟、停滞時代に入り、昔のやり方が通用しなくなる例が目立つ。日本が良き時代は海外で「根回し」が英語として通用したが、それは改良改善で競争力を発揮できた当時の産物で変化、創造が求められる現在は、NEMAWASIやKAIZENを凌駕する必要がある。
癒着や特権あるいは不当な方法の行使などは、より厳しく監視、評価され筋が通らぬものは排除や制裁を受ける。求められるのは透明度であり、それが効率を高め実利につながる。それほど意識してなくとも、時代は着実に変わり、後になってそれは明確になろう。私は良い方向に向かっていると思う。(2007年5月)
過剰は禁物(2008年10月)
戦場の心理で、まわりじゅう敵に見え、何どきブスリとやられるかと、恐怖の余り、禍を未然に防ぐという意味でやったのではないか。一癖斎にはそう思えてならないのである「間違いだらけのニッポン」(一癖斎酔話)杉森久英著、89年12月、読売新聞社。
これは南京虐殺事変を述べているが、筆者の指摘は正しい面がある気がする。ある状況では、極度に反応し、それが異常な行動をもたらす。恐ろしいのは、平常あるいは平静を保つ方が難しく、やたらと過剰ないしは過少に反応してしまうことだ。
われわれはあせらず少し鷹揚に構えたのがいいのではないだろうか。うまく説明できないが、人材、産業インフラ、勤勉かつ細かい作業が出来るなど豊かな歴史と伝統を持つ。自分たちは気がつかないが他の地域からみれば、すばらしい豊かな国なのだ。(2008年10月)
真面目すぎる日本人(2010年2月)
今年は電子書籍が有望市場として離陸しそう。しかし、動きが活発なのは海外で、わが国は著作権の管理などで手間取っている。法律、仕組みが異なり、加えてデジタル放送と同様に厳格な管理が好きな国民性?が有望市場への参加に数々の障害をもたらしている。
半導体分野は多くの特許や著作権が存在、その権利を利用するには対価を払う必要があるが、日本は支払実績で断トツといわれる。逆に言えば、まず払わない、あるいは払う気持ちがない。徴収できない方が世界的には主流とか。
従って日本人は本当に誠実ですばらしいなどとほめられるが、真面目すぎるのもどうかと思う。余り細かいことにこだわらずに思い切った改革が必要な場合もある。永い議論を経てデジタル録画の複数コピーは実現したが、多くの消費者は、それほど関心がなく、使いやすい方法を求めているはずだ。(2010年2月)
政治はダメです(2010年6月)
「いま世界で大人の文化を持っている国といえば、イタリアかな。政治はダメですけどね。日本も政治がダメになってくれたから、あと官吏がダメになってほしいですな。文化に味が出てきますよ。大人が楽しまざるを得なくなる」(歴史学者の会田雄次氏、95年4月小学館サライブックスから)
日本の財政悪化から欧州の友人から大丈夫かと尋ねられたので、今すぐどうのという問題でなく、しばらくは大丈夫ではないだろうかと答えにならないような話しをした。心配事は、どこの地域にもあり、お互い様。新興国は元気がよさそうだが、日米欧は、疲れ気味。
政治がダメとは今に始まったことではないが、世の中の仕組みが変わる時代は、うまくいかないのが当然の面がある。それでも事業仕分けのように目先の効果は少ないようだが、将来になったら、それが転機だったということになるかもしれない。政治には期待せずサッカーに期待? どうなるか。(2010年6月)
外交問題(2010年11月)
このところ外交問題が相次ぎ浮上、尖閣諸島の領有権、関連したビデオ映像の流出、ロシア大統領の北方領土訪問など困った問題が増えている。国家の運営は内政と外交の両輪によるが、内政も課題山積、そこを見据えたように外部から日本が揺さぶられている感じだ。
このような混迷は、日本の立ち位置、世界の中での日本の役割そして貢献、最終的に日本の価値が認められまで続くのではないだろうか。場合によっては、競争力つまり価値が目減りし、揺さぶられることが増える恐れもある。
楽観的かもしれないが、普段は余り考えない役割とか貢献、価値などを意識し、そこから活動や方向が浮かび上がる。見方を変えれば、これまでは、そのようなことを考えなくてもなんとかなった。しかし、時代も環境も大きく変わった。時間がかかるかもしれないが、外交力の日本を期待したい。(2010年11月)
「パートナー」
だから半導体は伸びる(1996年9月)
欧州の提携先である英フェチャーホライズンのマルコム・ペンが来日し、セミナーを開催、その内容は本誌でも概略を紹介したが、30年を越す経験を持つ同氏の発言のなかで「だから半導体は伸びる」は格別印象的。ロシアにも事務所を持ち、西欧だけでなくソ連を中心とした東欧まで深く分析してきただけにその発言には重みがある。
現在は混乱が収まらぬ東欧もやがては落ち着き、旧西側の水準近くまで電子製品を利用、その時期は15年後か20年後の可能性が高いが、少なく見ても、現在の半導体の世界市場以上の新市場が生まれるという見方が背景にある。最も2010年や2015年になったら今現在のエレクトロ二クス市場がさらに大きくなり、なかなか追い付かないという見方も否定できない。
間違いないと思われるのは、程度の違いはあっても最終的にはエレクトロニクスを使い生活や仕事の能率を上げる方向に進もう。人口5億の東欧で、これが現実化したときにアジアはどうなるのだろうか。アジアの人口は3 0億前後に達し、その衝撃は数倍だ。阻害する要因、例えばエネルギー環境、紛争戦争の危険性等少なくないが、21世紀は明るいと思いたい。
かつては七つの海を制覇、世界中を駆け巡り繁栄を誇った英国。 どこにでも出かけていく。ロシア人と交流を深めるのはウオッカが一番と冗談でいうマルコムだが、その挑戦や冒険の気迫を同じ島国人として、当方も活かしたい。(1996年9月)
歴史は繰り返す(2007年12月)
この11月と12月は欧米のパートナーと会い近況等を交歓した。毎年の恒例行事だが、今年は景気を反映してか、もう一つ盛り上がらない。間違いなく時代は進み、お互いに健康のことを心配するのは、永い付き合いのたまものと思う。
話が一致したのは、日本の80年代の躍動期と当時の欧米の厳しさ。その温度差は未だ忘れることができない。そして日本は失われた10年を経て、このところ少し回復。欧米は復権したが、実際は空洞化が顕著。これは今の中国、台湾、シンガポールなど熱い地域と日本、欧米の比較と同じ。
熱い地域の人々は、明るく前向き、そして挑戦的。われわれはどちらかといえば慎重、守りになりがち。今年はこのような地域による市況、景気に対する見方の違い、温度差が目立った感じがした。地球温暖化が懸念されているが、景気の場合はどうだろうか。良いお年をお迎え下さい。(2007年12月)
「海外」
統合控え活発な欧州(1989年11月)
11月の声を聞くと、今年も残りわずか、やれクリスマスカードの準備、それから年賀状の手配と皆が忙しくなる。そんな中で、いやいやまだ2か月も残っている、これからが本当に追い込みだと張り切る向きももちろん少なくない。
10月の下旬には久し振りに欧州を訪問し、フィリップス、シーメンス、SGSトムソン社等の業界関係者と意見を交換する横会を得た。やはり欧州は歴史の重みが感じられ、人々の行動は先の例からいえば前者に相当しそう。年間休暇は30日前後もあり労働日数も200日を少し上回る例が多いとか。
1992年の欧州統合を控えて、域内の交流は盛んになっており、半導体でも域内で一貫生産しなければ原地産と認定されず調達上の制限があることから、日、米、アジア系企業の進出ラッシュ続いている。勢い話題も、欧州が将来半導体工場であふれたらどうするか、ということになるが、現地の業界の人々の表情は複雑だ。
必要以上の工場を設立すべきでないという意見や余剰生産が発生したら輸出に回すなど、さまざまな見方があるが、いずれにしても、大きなエネルギーが1992年に向けて振り向けられているのは間違いない。(1989年11月)
加熱するアジア地区(1994年9月)
アジアで電子部品需要が急増、その勢いは現在でもとどまることをみせないようだ。例えばVTR用では春先は月500万台弱の需要が寄せられていたのが、現在は700万台分は下らないという。これは先に現地を訪問してきたある資材担当者の話だが、その通りなら年初からみたら4割増となり、部品の供給はなかなか追い付けない。低価格品で知られるあるVTRメーカーは1 セントでも安い部品があれば即刻現金払いで、集めてしまうとか。需要数量は旺盛としても、利益面では、厳しいことも伝えられている。
アジアブームといってしまえばそれまでだが、お隣とはいえ、日本国内とは商習慣を初めとして、いろいろ違いは 少なくないようだ。 とくに敏感になっているのが納期や品質で、ときには価格以上に影響を与えることもあるという。わざわざ欧米まで応急措置で部品を取りにいくこともあるようだ。日本国内で、 過去何年にもわたり 外国製の半導体購入を行ってきた努力が、アジアで役立つといった皮肉な現象もあるという。
別にアジアでの生産が、ここ2一3年で活発になった訳でもないのだろうが、ともかく動きは急な感じがする。見方を変えれば、構造変化、不況からの脱出のポイントが、これらの諸々の動きに集約されているのかも知れない。ともかくすごい力が加わって、何か新しい流れを創りだすような活気がある。動きは急だが冷静に判断して、お役にたつ情報の提供に力を入れていきたい。(1994年9月)
昔は日本、今は中国(2008年2月)
中国製の冷凍ギョーザに農薬が混入、大きな問題となっている。いろいろな方面に波紋を投げかけているが「中国製」や「食の安全」全般に影響が広がっている。原因が究明され、再発を防がなければならない。真相は、解明されていないが、中国製のイメージを悪化させる。
「安かろう、悪かろう」「模倣」「粗悪輸出品」は、ついこの間までの日本製品を示す言葉だった。しかし日本はそれから脱却し、この20年ほどで高品質高性能を海外で評価されるようになった。韓国、台湾そして中国と日本の成功を追う国々が延々と続き、逆転する例も少なくない。
中国製も歴史が繰り返すなら同じ道を歩もう。しかし、先頭を切り開いた日本が、同じ道を歩むことは有得ず、引き返すこともない。水は高いところから低い方にしか流れない。決して日本が後戻り出来ないように発生する問題は、協力して解決するしかないだろう。(2008年2月)
欧米志向の見直し(2009年11月)
世界の名目GDPは1989年の20兆ドルから08年には60兆ドルに拡大。このうち新興国を含む途上国のシェアは23%から31%に上昇した。と日経新聞「冷戦終結20年(2009.11.6)」が書いている。名目とはいえ過去20年でGDPが3倍? 数字を検証していないが、恐らく間違いないのだろう。
中国を始めインドそれからベトナムなど景気回復は早い。この動きは、世界とくにアジア周辺国にも波及し、世界経済の回復を促そう。発展の面ではアジア地区が中心になりそうで、これは日本にとっても良いことだろう。もちろん南アフリカや南米も期待されている。
個人的には、どちらかといえば欧米志向が強かった。仕事上、欧米の人々との関連が強かった面が影響していると思う。加えてこれからはアジアや南米、中近東さらにはアフリカにもいろいろな関係を築きたい。先立つのは体力? がんばらねば。(2009年11月)
経済特区30周年(2010年9月)
中国の広東省深圳市で経済特区の設立30周年を祝う式典が9月6日、行われた。この30年で驚異的な発展を遂げた中国を代表する地区で、その30年の変化と発展は、奇跡といっても良いほど。92年にケ小平氏が同市を訪れ経済発展を称えた「南巡講和」で、改革開放路線が加速された。
私は83年に米調査会社に転職、シリコンバレー滞在が多かったが、そのときに人民服を着た大柄な中国の人々が半導体産業の研究に励んでいたのを記憶している。また、日本で中国の政府要人に半導体工業の実情を講演していただいたこともあるが、その当時(84年)は、まだ基盤開発の感じを受けた。
中国の存在が世界的に高まるのは、2001年12月の世界貿易機関(WTO)加盟承認当たりから。そして今年はGDPで日本を超す。一方で深圳では、人件費や地価の上昇で競争力に陰りも指摘されている。30年は、歴史的には大きな区切りで、「会社の寿命30年」説とも通ずる面があろう。(2010年9月)